第89章 重陽の節句
ボソボソとぼやく信長の声を聞き取れなかった秀吉は、更に焦りを隠せない。
(御館様のお言葉を聞き逃すなど、俺としたことが、とんだ失態を…臣下としてありえんっ!)
「御館様っ!」
「もうよい、退がれ。夜の宴までの間に、執務室に届いている書簡を全て整理しておけ。明日、確認する」
信長はそれだけ言うと、さっと立ち上がって、もう部屋を出て行こうとしていた。
手には、件の菓子の包みを持っている。
「ははっ!畏まりました。あ、あのっ、どちらへ??」
「……休憩だ。邪魔するなよ」
「なっ…お、御館様っ…」
言葉を失う秀吉を尻目に、早くも信長は、足取りも軽く階下へと降りていくのだった。
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「……というわけで、俺としたことが、抜かったわ」
「まぁ…信長様ったら、そんな意地悪を仰ったのですか?秀吉さんが可哀想ですよ」
「ふんっ…可哀想なことがあるか。俺がせっかくお膳立てしてやったというのに、彼奴め、あの様子では千鶴とは一向に進展しておらんぞ」
憤懣やる方ないといった風に不満げな顔をしながら、信長は皿の上から菓子を一つ摘み、パクリと口に入れる。
「ん、美味い」
白餡を包んだ薄紅色の煉切で、菊の花の形を型取り、その上に白色の煉切を細くそぼろ状にしたものを真綿に見立てて乗せている。
口に入れると、ふわりと優しい甘さが広がって、口当たりの良い煉切は何とも言えない上品さを感じさせる。
朱里が食べたがっていた『着せ綿』という菓子は、菊の節句に相応わしい見た目にも上品な細工の菓子であった。
天主を出た信長は、真っ直ぐに朱里の部屋へと向かった。
嬉しそうに出迎えてくれた朱里は、早速に茶を点ててくれ、二人でお茶の時間を楽しんでいた。
(二人で同じ菓子を食べ、茶を飲む…ただそれだけなのに、今この時間がひどく満たされたもののように感じる)
ふと良い香りがして、部屋の中を見回すと、床の間に色とりどりの菊の花が生けてあるのが目に留まる。
「綺麗でしょう?秀吉さん達が城下で買ってきてくれたんです」
信長の視線に気が付いた朱里が、ニコニコと笑いながら説明する。
「お庭の菊も見事でしたけど、こちらもとても綺麗。今日は城下も菊の花でいっぱいだったそうですよ」
少し残念そうな表情になるあたり、やはり自分で行きたかったのであろう。