第89章 重陽の節句
ちょうど通りかかった小間物屋の店先に、小さな菊の花の形の飾りがいくつも付いた簪が売られているのが目に入り、千鶴に似合いそうだなと足を止めた。
繊細な簪は、決して派手ではなく、控えめながら細部まで丁寧な細工が施されている。
大人しく控えめだが、よく気が利く千鶴のようだと瞬間的に思ったのだった。
「これは秀吉様、さすがお目が高い。こちらの簪は京の職人が仕上げたものなんです。派手さはないですが、良いお品ですよ」
店の主人が秀吉に気付いて、ニコニコと人懐っこい笑顔を浮かべて話しかけてくる。
秀吉は信長の命令で、定期的に城下の見回りなどしていることもあり、常日頃から商人達とも交流があった。
人好きのする性格で面倒見も良い秀吉に、町の者は皆こうして気さくに話しかけてくれるのだった。
「よろしければ挿してみられては?こちらに鏡もございますよ」
店の主人から簪を受け取り、千鶴の方を見ると、戸惑ったような顔をしている。
「どうした?これは…気に入らないか?」
もしや好きではない意匠のものだったのかと心配になり、慌てて尋ねると、千鶴も慌てたように首を振った。
「い、いいえっ…気に入らないなどとそんな…とても綺麗で可愛いらしいですわ。でも、そんな高価なもの、私にはもったいなくて…」
「もったいないなんて、千鶴はそんなこと考えなくていいんだ。俺が千鶴に似合うと思ったから贈りたいだけだ。惚れた女に簪を贈るのは、恋仲のいる男の特権なんだぞ?」
「まぁ、そんな……」
冗談めかして言う秀吉に、頑なだった千鶴も微かに笑みを浮かべる。
その愛らしい笑顔に魅了されながら、艶やかな黒髪をそっと撫でて、簪を挿してやると、菊の花の飾りが、シャランッと揺れて美しい音を立てた。
「おおっ、よくお似合いですよ!さぁさぁ、ご覧になって下さいませ」
店の主人に手渡された手鏡をかざしながら、自分の髪に挿された簪を見る千鶴の嬉しそうな横顔に、秀吉もまた嬉しくなる。
「っ…綺麗っ…」
「すごく似合ってるよ」
「っ…でも…やっぱりこんな見事なものを頂くわけには…」
遠慮がちに言いながら簪を外そうとする千鶴の手を、秀吉の大きくて無骨な手がやんわりと押さえる。