第89章 重陽の節句
茶屋でゆっくりとお茶と甘味を味わった後、賑わう市へと足を向ける。
「まぁ!随分と賑やかなものですねぇ」
「安土の城下と同様、この大坂城下でも、御館様は人や物の往来の自由を許されているからな。異国から珍しいものもどんどん入ってきてるぞ」
「そうなのですか…大坂へ城移りして間もなく一年(ひととせ)ですが、これまでこんなにゆっくりと城下を歩くことはございませんでした」
キョロキョロと右に左に忙しなく店先を覗き込んでいる千鶴を、秀吉は微笑ましい気持ちで見る。
「そうだなぁ…千鶴は、なかなか城下へ行く機会がないか…結華様のお傍を離れるわけにはいかないもんな」
「はい。ですから今日は、御館様から直々にお遣いを命じられて嬉しゅうございました。秀吉様とご一緒できて……もっと嬉しかった」
言ってから、恥ずかしそうに目を伏せる千鶴に、秀吉は愛しさが抑えられなかった。
往来の真ん中でなければ、今すぐに抱き寄せて、愛らしい言葉を紡ぐその唇を奪ってしまいたかった。
しっとりと濡れたように艶があり、柔らかそうなその唇に重ね合わせたら、どんな心地がするだろう。
想像するだけで気持ちが浮き立ち、居ても立っても居られなくなる。
結華様のお傍を離れたくないという千鶴の気持ちを大事にしたいと思い、なかなか二人きりで逢えないことも受け入れていた。
その反面、千鶴を自分の御殿に住まわせてでも、もっと二人の時間を過ごしたい…早く結ばれたい、という思いもあった。
男として、当然、そういう欲もある。
恋仲になったばかりの女を前にして、その身も心も早く自分のものにしてしまいたいという想いは、日に日に強くなっていた。
(あ"あーダメだダメだっ!真っ昼間から不謹慎なことばっか考えちまう…落ち着け、秀吉。せっかくの逢瀬だ、千鶴をもっと楽しませてやらねぇと……)
「千鶴、何か欲しいものとかないのか?せっかく城下に来たんだ。何でも言ってくれ。今日は菊の節句だから、綺麗な細工物なんかも沢山出回ってるぞ?」
興味津々で市の様子を見ていた千鶴は、秀吉の言葉に、困ったような曖昧な笑みを浮かべる。
「欲しいものなどは特に…姫様へはお土産のお菓子も買えましたし、私は何も必要なものはないので…」
「必要なものじゃなくても…ほら、この簪(かんざし)なんてどうだ?」