第89章 重陽の節句
「あの、秀吉様…今日はお忙しいのでは?城下へは私一人でも大丈夫ですよ?」
「いやいやいや…お前を一人で行かせるなんてダメだ、何かあったらどうする?それに、御館様から命じられた大事なお役目だ。俺が行かねばっ…」
「はぁ…」
「さぁ、行くぞ!千鶴……あ、ところで……どこに行けばいいんだ??」
勢いよく門を出ようとした秀吉だったが、そういえば行き先すら聞いていないのだった。
「ふふ…秀吉様ったら…」
ふわりと微笑む千鶴を見て、秀吉の胸は煩く騒ぎ出す。
(っ…可愛いな)
千鶴とは乳母になって以来たびたび話をする機会があったが、恋心を自覚したのはつい最近だった。
千鶴も自分を想ってくれていたことが分かり恋仲になったのだが、お互いに仕事が忙しく、仲を深めるどころか二人きりで逢うこともできていなかった。
千鶴は城勤めのため、朝から晩まで結華様の傍に仕えているから、おいそれと外出などできないのだ。
だから、結華様のご機嫌伺いに行った時に話をしたり、文をやり取りしたり…と恋仲になったとはいえ、これまでと何ら変わりなく何とも清い関係なのだった。
(御館様に千鶴とのことをご報告したあの夜も結局、千鶴とは一晩中話をしていただけで…千鶴が御殿に泊まったあの三日間もそんな雰囲気になることもなく……)
好き合って恋仲になったのだから、もちろん口付けなどはするのだが、千鶴とはいまだ一線を越えられずにいた。
拒絶されているわけではないのだが、二人きりになれる時間がなく何となくズルズルと先延ばしになっている感じだった。
(そもそも俺は奥手ってわけじゃないんだが、千鶴のことは大切にしたいしな…)
御館様の策にまんまとハマってしまった気はするが、千鶴と二人きりで出かけられるなど、滅多にない機会だ。
そう思うと、秀吉の心も自然と弾んでくるのだった。
「千鶴っ…」
「えっ?あ…あの…」
そっと差し出した手と、俺の顔を交互に見比べて戸惑う千鶴。
迷うようにもじもじと擦り合わせているその可愛らしい手を、少し強引に引き寄せると、すぐに指を絡めた。
「ひ、秀吉様っ…」
「行こう、千鶴」
頬を朱に染めて恥じらう千鶴を愛らしく思いながら、秀吉は千鶴の歩幅に合わせるように、ゆっくりとした足取りで城下へと歩き始めた。