第89章 重陽の節句
「はぁ…全く、御館様にも困ったもんだ。急に仰られるんだから…今日は宴の準備とか、やることが色々あったんだがなぁ…」
城門の前でブツブツと独り言を言いながら、秀吉は手持ち無沙汰な様子で立っていた。
広間での朝の軍議の後で、信長から突如命じられた城下への遣い。
詳しいことは知らされず、『巳の刻にとりあえず城門の前で待っていろ』という無茶苦茶な御命令だった。
何の用事かも、誰かと一緒に行くのかどうかも、一切知らされていない。
何と乱暴な御命令かと思わないでもないが、敬愛する御館様の仰ることだ…間違いなどあろうはずもない。
(それにしても…今朝の軍議では、いつになくご機嫌だったな、御館様。今朝は早くから朱里と結華と三人で節句の行事を楽しまれたようだ)
信長の楽しげな顔を思い出し、自然と頬が緩む秀吉だったが……
「秀吉様っ!?」
呼びかけられて、ハッとして顔を上げると……
「千鶴っ!?お前、何だってこんなとこにいるんだ?」
城門に向かって駆けて来たのは、千鶴だった。
千鶴は、結華の乳母であり、最近想いが通じ合ったばかりの俺の恋仲だ。
「秀吉様こそ、ここで何をなさっているのですか?」
「いや、俺は御館様から城下へ遣いに行くよう命じられてだな…ここで待つように言われてるんだが…」
「まぁ!私も御館様からのご命令で城下へお遣いに参りますの。一緒に行って下さる護衛の方が城門前で待っているからって言われているのですけど……」
「はぁ!?護衛って?まさか…」
「秀吉様?」
信長の悪戯っぽく笑う顔が頭に浮かび、秀吉は頭を抱えたくなった。
(ハメられたっ…御館様のタチの悪い悪戯か…いや、でも千鶴と二人きりで城下へ行くなんて初めてじゃないか?お遣いとはいえ、考えようによってはこれは初めての逢瀬……)
そう思うと、自然と顔が緩んでしまうのだが……
(いやいや…待て待て、これは仕事だ。御館様から命じられた大事なお役目、浮ついた気持ちで行くなど、もっての外だっ)
緩んだ表情を慌てて引き締める秀吉の心の中の葛藤など、千鶴は知る由もない。
思わぬところで秀吉に会えて嬉しかったが、忙しい秀吉が自分の護衛などと、本当に良いのだろうかと不安になっていた。
秀吉が先程から険しい顔をしているのも、気にかかる。