第89章 重陽の節句
揺れる私の心を見透かすように、信長様は優しく気遣うような目で私を見つめる。
それから、困ったように曖昧に微笑みながらも、頬にちゅっと優しい口付けをくれた。
(あぁ…信長様を困らせちゃいけない。やっぱり今年は諦めよう…)
「…分かりました。ごめんなさい、信長様。我が儘ばかり言って」
「貴様が願い事を言うなど珍しいことゆえ、叶えてやりたかったが……こればかりはな。また来年の節句の日には、共に逢瀬に参ろう。来年も再来年も…これから何度でもだ」
「信長様っ……」
慈愛に満ちた言葉に、胸の奥がジンッと熱くなる。
(信長様はいつだって私を幸せにする言葉をくれる。この方の妻になれて、子を宿して…本当に幸せだ、私)
「………で?一体、何が欲しかったのだ?」
「えっ?」
「貴様が珍しく粘るぐらいだから、余程欲しいものなのだろう?城下で何を買うつもりだったのだ?」
興味津々といった顔で問い詰められて、戸惑ってしまう。
「や、そのぅ…大したものでは…その、お菓子、なんですけど…」
「は?菓子?」
「毎年、重陽の節句の日に頂く『着せ綿』という和菓子です。ほら、この菊の花と真綿を模したような、この時期にしか食べられないお菓子です。毎年、節句の日には買いに行っていたので。その…信長様と今年も一緒に食べたくて……」
「っ………」
(たかが菓子一つ…俺と一緒に食べたいから、だと?こやつは本当に俺の予想を超えてくる…)
「貴様は本当に愛らしいことを言う…相分かった、それは秀吉に買いに行かせる」
「えっ?ええっ…そんな…秀吉さんに行かせるなんて、悪いです。宴の準備とか…忙しいのに」
何だか大ごとになってしまった。忙しい秀吉さんの手を煩わせるなんて、申し訳なさ過ぎる。
「案ずるな。彼奴はそう忙しくないはずだ。俺が言うのだから間違いない」
「そ、そんな……」
自信たっぷりに言い放つ信長様は、一度決めたことは決して覆さない御方だった。
「そうと決まったら早速に命じておくか……いや、待て、もっと良い策を思いついたぞ……」
(へ?策?お菓子を買いに行ってもらうのに、何の策を??)
「あ、あの…信長様?」
ニヤリと不敵な笑みを浮かべて何事か思案し始めた信長を見て、朱里は不安でいっぱいだった。