第89章 重陽の節句
明の国では、菊は優れた薬効をもつ植物として古くから知られており、菊が群生している谷を下ってきた水を飲んだ村人たちが長寿になったという『菊水伝説』なるものが記されている書物もあるらしい。
重陽の節句の風習でも、この日は酒に菊の花を漬け込んだ菊酒を飲んだり、湯船に菊の花びらを浮かべて香りを楽しんだりして、また一年健やかに生きられるようにと願いを込めるのだ。
城下でも、菊の品評会が行われたり、菊の切り花や小物類を扱う市が開かれたりと、色とりどりの菊花が彼方此方で鑑賞でき、町全体が華やかな雰囲気に包まれる。
「明日の朝は早起きしなくちゃね、結華」
「はい、母上。楽しみですねっ!」
明日は早朝から、菊の香りが移った真綿を集めるのだ。
幼い娘とこうして季節の行事を一緒に楽しめることに、私は母としてこの上ない幸福を感じていた。
日々お忙しい信長様にも、こうした季節の移ろいを感じて、心を穏やかに過ごして頂きたいと思う。
幸いに、近頃は戦や一揆の兆候もなく、領地からの報告にも不穏なものはないようだ。
信長様にも武将達にも、久しぶりにゆっくりとした時間を過ごしてもらえればと思っている。
夜には宴も予定されているから、きっと明日は賑やかな一日になるだろう。
祭りの前夜のような心躍る心地に、自然と頬も緩みがちになる朱里だった。
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翌朝早く、私は結華と共に庭に出ていた。
秋らしい澄んだ空気が清々しい早朝の庭は、下草にも夜露が下りてしっとりとしていた。
澄んだ綺麗な空気を胸いっぱいに吸い込むと、起き抜けの頭もスッキリとして気持ちが良かった。
前日に菊花に被せた真綿をそっと外すと、夜露を含んでしっとりと濡れており、花の香りがふわりと香る。
繊細な真綿を潰さぬように慎重に全て集め終わると、急いで部屋へと戻る。
「終わったのか?」
庭から部屋へ上がると、そこには肘を頭に横になっている信長様の姿があった。
「父上っ!」
信長の姿を見つけた結華は、嬉しそうに駆け寄っていく。
「信長様、すみません…朝早くから付き合って頂いて」
「構わん。気にするな、どうせ早いうちから目が覚めるのだ」
「ふふ…ありがとうございます」
信長は、駆け寄ってきた結華を愛おしそうに抱き上げて、胡座を掻いた膝の上に乗せている。