第88章 裏切り〜甘い香りに惑わされて
美しくも妖艶な色の瓶から目が離せない。
透明な玻璃と比べると、紅色や瑠璃色といった色付きの玻璃はあまり目にする機会がなかった。
玻璃の器自体が珍しく高価なものなので、異国と交易をしている信長様ほどの御方でなければおいそれと手にできるものではないのだった。
「……貴様が気にしていたものだ」
クイっと悪戯っぽく口の端を上げながら、信長様は瓶の蓋をそっと開ける。
その瞬間、ふわりと香ったのは………
「っ…この香り……」
「そうだ、貴様が気にしていた俺の香りだ」
「え、あっ、でも…これ、香、ですか?こんな水のような…」
私が知っている香というものは、着物など身に付けるものに焚き染める香木か、直接身体につける練り香水と言われる半練り状のものか、そのどちらかだった。
このような液体状の香など見たこともなかった。
「『香水』というそうだ。異国の者が使う香だ。練り香水と同じように、手首など香りが広がりやすいところに付けると良いらしい。
手を出せ、付けてやる」
おずおずと差し出した私の手を優しく取ると、手首の裏に香水で濡らした指先を滑らせる。
手首の筋をなぞるように、細くて長い指先がつーっと滑っていく。
香水を付ける、ただそれだけのことなのに、敏感なところを指先で愛撫するかのようなひどく官能的な信長様の指使いに、クラクラしてしまう。
(まるで香水の匂いに酔ったみたい…)
甘く刺激的な香りだが、決してきつい香りではなく、香りに酔うはずはないのだが……
「この香水の名は『裏切り』というそうだ」
「裏切り…?」
甘く濃密なこの場の雰囲気に似つかわしくない不穏な名に、ドキッとする。
「香水は最初に付けた後、時間が経つにつれ香りが変化していくものらしい。この香水は、最初の印象を大きく裏切って香りが変わるそうだ」
「それで、『裏切り』ですか…」
(確かに、甘い香りの中に、香辛料のようなピリッと刺激的な香りもあって…予想を裏切られて惹きつけられる香りだわ)
「先日の商談相手の中に、『調香師』という香水を調合することを生業とする者がおったのだが、異国の香りの話を色々と聞くうちに面白くなってな、その者と一緒に貴様に似合う香りを選んでいたのだ。その際に、身体に香りが移ったのであろう」