第88章 裏切り〜甘い香りに惑わされて
「……そろそろ戻るぞ。このまま天主へ連れて行く」
「えっ?あっ…やっ…」
言われるが早いか、軽々と抱き上げられる。
すぐ間近に信長様の端正な顔が近づき、額にちゅっと口付けが落とされた。
「信長様っ…まだ話の途中ですよ…今日は私、口付けで誤魔化されたりしないんだから……」
「いつもと違って強気なことを言うではないか…くくっ、気の強い貴様もなかなかに良いな」
余裕の笑みを浮かべた信長様は、カプリと耳朶に歯を立てる。
不意打ちの甘い刺激に、痺れるような快感を感じてしまう。
「あっ、んっ…やだっ…」
「このまま大人しく抱かれていろ。話の続きは、天主に着いてからだ」
それ以上反論することは許されず、半ば強引に庭の散策を中断させられてしまった私は、そのまま信長様の腕に抱かれて天主へと連れて行かれてしまったのだった……
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「信長様、あのっ……」
天主へ着くと、信長様は私をその場に降ろしてすぐに、文机の前へと歩いていった。
(あ…まだお仕事、なさるのかしら。夕餉の刻限まではまだ間があるし、邪魔しちゃいけないよね…)
さっきまでは『今日こそ、あの香りの秘密を突き止めよう』と勢いこんでいた気持ちが何となく削がれていく。
子供みたいな独占欲で、信長様の邪魔をしたくはなかった。
(『口付けでは誤魔化されない』なんて…可愛くないこと言っちゃった…本当は嬉しかったのに。たとえ軽い触れ合いでも、信長様が私に触れてくれる…それだけで何よりも幸せだったのに)
「朱里…?」
呼びかけられて、ハッとして顔を上げると、すぐ傍に信長様が立っていた。
「っ…あ……ごめんなさい。まだお仕事なさいますか?私、邪魔にならないよう奥の部屋に行ってますから」
「ん?いや、今日はもう終いだ。それより……朱里、これを貴様に……」
「えっ?」
そっと差し出された信長様の手には、キラリと輝く紅玻璃の瓶があった。
小さな瓶だが、中には何か液体が入っているようで、ユラユラと妖しく揺れている。
「あの…これは?」