第88章 裏切り〜甘い香りに惑わされて
数日後の夕暮れ時
私は自室で一人寛ぎながら、暮れゆく空の下、茜色に染まっていく庭の木々をぼんやりと見ていた。
今日も残暑厳しく暑い日だったが、日が暮れ始めると幾分暑さも和らぎ、時折吹く風は、秋色めいた涼やかなものだった。
遠くでヒグラシが鳴いている、カナカナカナという声が風に乗って聞こえてくるのが、夏の終わりを感じさせ、何とも物哀しい。
侍女達も夜を迎える準備に忙しいこの時間は、私が一人になれる時間でもあった。
日中はまだまだ日射しが強く、外に出るには憚られるが、日が落ちつつあるこの時間なら過ごしやすいだろうと、庭へ出てみることにした。
庭の花々を見ながら、転ばぬようにゆっくりと歩く。
一年を通じて様々な花が楽しめるように作られた大坂城の庭は、季節の移り変わりを感じながらいつでも飽きずに散策できる私のお気に入りの場所だった。
早くも秋の訪れを告げるかのように、薄桃色の秋桜が風に揺れている。可憐で可愛らしい花弁は、派手な美しさはないが、どこか懐かしい感じがする。
(可愛い…もう少し沢山咲いたら、信長様のお部屋にも飾って差し上げよう)
日頃お忙しい信長様を少しでも癒してあげたい。
あの方のために私ができることは、それこそ何でもしてあげたいと思う。
天下布武という信長様の大望が叶った今も、戦や一揆の懸念が完全になくなったわけではない。
常に気を張り詰めておられる信長様が、日々の些細なことにでも安らぎを感じて下さればと願わずにはいられなかった。
「朱里っ……!」
思いがけず名を呼ばれ、ハッとして顔を上げると、力強い足取りで急いで歩いてくる信長様の姿があった。
「信長様…?」
「……部屋に行ったら姿が見えぬゆえ、心配したぞ」
「あっ…涼しくなってきたので、夕餉の前に散歩でもしようと思って…ごめんなさい。探して下さったのですか?」
「っ…いや……」
言葉を濁し、視線を背けた信長様は、少しの思案の後、はぁっと小さく息を吐いた。
「信長様?」
「………心配した。貴様の身に何かあったらと思うと居ても立っても居られなかった。まったく…自分でも呆れるぐらい過保護だな。くくっ…これでは、秀吉を笑っていられんな」
珍しく自嘲気味に言う信長様は、いつもと違って頼りなさげで可愛いくて……私もまた、居ても立っても居られなくなって……ぎゅっと抱き着いた。