第88章 裏切り〜甘い香りに惑わされて
情事の後のような余韻が残る濃密な空気の中、乱れた着物を整えた信長様は、床に無造作に脱ぎ捨てられていた羽織を拾い上げる。
その時、あの甘く刺激的な香りがふわりと香った。
「っ……」
(この香り…今宵もまた…他の女人とお逢いになった後だったの?)
思わず息を呑んでしまった私を、信長様は訝しげに見る。
「……どうかしたか?」
「あのっ、その…信長様のその香り、それは…」
「香り…?あぁ…これのことか…」
羽織に顔を近づけて、くんくんっと匂いを嗅ぐ仕草をする。
「この香り…嫌いか?」
「えっ?いえ、そのぅ…」
(嫌いも何も…他の女人の残り香なんて嫌に決まってる。でも、そんなこと言えないし、聞けないよ…嫉妬深い女だって思われたくないっ…)
モヤモヤと複雑な気持ちになり、答えられない私を、信長様は不思議そうに見ておられる。
「………………」
「………まぁ、よい。それより、身体は大事ないか?無理をさせたな」
大きな手が柔らかく頬に触れ、細く綺麗な指先が唇の上をツーっと撫でていく。
官能的な指の動きに、胸の鼓動が煩く騒ぐ。
「大丈夫…です。信長様は…気持ちよかったですか?」
「っ…あぁ。くくっ…天にも昇る心地だったな。だが、このようなことは、もうせずともよい。俺は…貴様に過剰な奉仕を強いてまで快楽を得たいわけではない。俺一人が満たされても意味がない。貴様とともに昇り詰めたいのだ。だから、子が無事産まれるまでは…我慢する」
「で、でもっ…私は、信長様には我慢などして欲しくないのです。
本当は私も一緒に満たされたい…でも、お腹の子も大事にしたい。愛しい貴方の大切な御子だから…何としても守りたいのです」
「朱里……」
「共に満たされることが難しいのなら、私が…貴方を満たして差し上げます」
(だから…私だけを見て。他の女人(ひと)なんて見ないで…)
激しい独占欲を表す言葉が口から溢れそうになる。
言えない…言ってはダメ…信長様を困らせたくない。
「ふっ…随分と言うようになったな。だが、悪くない。もはやこの身は貴様でしか満足できぬようになっているのだ。ならば全て貴様に委ねよう」
チュッと唇に触れるだけの口付けを落とし、ふわりと優しく包み込まれる。
その夜は結局、あの香りの秘密は聞けぬまま、久しぶりに信長様の腕に包まれて眠りについた。