第88章 裏切り〜甘い香りに惑わされて
(はぁ…眠れない)
褥の上でゆっくり寝返りを打ちながら、はぁ…っと溜め息を溢す。
臨月近くなると、大きなお腹を抱えて寝返りを打つのも一苦労だった。
信長様は今宵も外出中だった。
起きていても色々と詮ないことを考えてしまうからと、自室の寝所で早々に横になったものの、一向に眠れない。
目を閉じて何も考えないようにしようとしても、いつの間にか信長様のことを考えてしまうのだ。
(もう会合は終わったかしら。今頃何していらっしゃるだろう…)
異国の香りを身に纏う女人の身体を抱く信長様の姿が浮かび、思わずぎゅっと目を閉じた。
(嫌っ…考えたくないのにっ…)
不安な気持ちが伝わったのか、お腹の中で赤子がくにゃりと動き、キュウッと張り詰めたようになった。
(っ…ごめんね、大丈夫だからね)
安心させるようにお腹をすりすりと撫でていると、張りが少しずつ収まっていく。
(ダメだな、私。心がすぐに揺らいでしまって、この子まで不安にさせちゃってる…)
はあぁ…っと、もう一度深く溜め息を吐いて褥に顔を埋めたその時だった。
「……朱里?まだ起きてるか?」
襖の向こうから突然聞こえた遠慮がちな声に、ハッとなって顔を上げる。
(信長様っ…!?)
すーっと音を立てずに襖が開かれて、身体を滑り込ませるようにして信長様が入ってくる。
着物の上に羽織を羽織った外出着のままだった。
「信長様っ…お帰りなさいませ」
「ん、今戻った。………起こしてしまったか?」
夜着姿の私をチラリと見ながら、すまなそうに言う。
「いいえ、来て下さって嬉しいです。今宵はお早かったのですね」
「ああ、商談の目処がついたのでな。今後は細かな取り決めを詰めるだけだ、俺が出向く必要はない」
「では、もう夜に出掛けられることは……」
「ない」
嬉しさと安堵感から、耐え切れなくなって…思わず信長様にぎゅうっと抱き着いていた。
「っ…!?朱里……?」
驚いたように息を飲む信長様の声を頭の上で聞きながら、それでも私は信長様の背中に回した腕を解くことができなかった。