第88章 裏切り〜甘い香りに惑わされて
その時、甘いぼうろの香りとは違う、別の香りが信長様の羽織の袖口からふんわりと香ったような気がした。
(あれ…この香り…)
モグモグと口中のぼうろを咀嚼しながらも、頭の中で感じた違和感の正体を探る。
(信長様のいつもの香の香りとは違う…嗅いだことのない香りだわ)
「美味いか?」
「あ、はい、美味しいです。甘くて香ばしくて、いくつでも食べられそうです」
「くくっ…ならば遠慮せず、もっと食え。腹の子の為にもな」
「信長様……」
優しげな言葉と包み込むような笑顔を見てしまい、違和感を感じた香りのことは何となく聞けなかった。
政務を再開された信長様と別れた私は、自室へと戻るべく廊下を歩いていた。
短い時間だったけど信長様と話ができて嬉しく思いながらも、先程嗅いだ信長様の香の香りのことが気になって仕方がなかった。
花のような甘さの中に香辛料のようにピリッとした刺激的な香りが混ざった不思議な香り。
信長様が普段好んで焚き染めておられる伽羅の香とは、全然違う香りだった。
(あれは香の香りではない。何というか、異国の香りのような……
信長様が香を変えられたのだろうか…それともあれは、誰かの残り香なの…?)
微かに香っただけの香りが、いつまでも鼻の奥から抜けず、モヤモヤと胸の内にまで広がっていくようだった。
(うぅー、もぅ、気になることばっかりだ…)
晴れぬ心のまま廊下を歩いていると、廊下に面した部屋の中から女中さん達の話し声が聞こえてきた。
どうやら、掃除をしながら噂話に花が咲いているようだ。
「昨夜も御館様のお帰りは随分遅かったわねぇ」
「ほんと、ここ最近毎日じゃない?」
「そうそう、城下で大きなご商談だそうよ。大変ねぇ」
「でも…ねぇ、私、気になってるんだけど…お帰りになられた御館様のお身体からいつも良い香りがするのよ」
「えぇっ…それって…」
「御館様の香の香りとは違うのよ。あれは女物の香だと思うんだけど……」
「ちょっと!滅多なことを言うもんじゃないわよ、奥方様のお耳にでも入ったら大変よ」
「奥方様の御懐妊中に、御館様が浮気なさるなんて、ねぇ?」
「しーっ、聞こえるわよ…」
(う、浮気っ!?信長様が……嘘っ…)