第88章 裏切り〜甘い香りに惑わされて
その日から連日、信長様は夜、政務から戻られるのが遅くなった。
秀吉さんに聞いたところによると、城下で異国の商人との会合があり、大きな商談なので信長様が自ら出向いておられるということだった。
「信長様、今宵もお戻りは遅くなられますか?」
ここ数日夜にゆっくりお話が出来ないことに悩んだ私は、ご政務中の信長様へお茶をお持ちしていた。
「ん……そうだな、遅くなる。貴様は自室で先に休んでおれ」
書簡に筆を入れながら答える信長様を見て、少し寂しい気持ちになってしまう。
信長様のお帰りが遅い日は、一緒に天主へ行くこともできないので、このところ私は自室で一人、寝起きしているのだ。
(触れ合うどころか、お傍で休むことも出来なくなっちゃった…寂しいな……でも、お仕事だもの、仕方ないか…)
結局、あの夜から、信長様のお気持ちは聞けず終いだった。
私から触れようとしても、何故か距離を取られてしまうのだ。
一人でなさるぐらい我慢して下さっているのなら、私がしてあげたい…そう思って、恥ずかしいけど自分からお誘いしてみようと気合いを入れたというのに……
「……朱里?どうかしたか?」
「……え?あっ……」
呼びかけられてハッとして顔を上げると、信長様は書簡を書き終わり、既に筆も置いておられた。
「ごめんなさい、ぼんやりして…お茶、どうぞ…」
慌てて文机の上にお茶と甘味を置くと、信長様は訝しげにチラリと私の表情を窺ってから、皿の上の甘味を見てニッと口角を上げた。
「ほぅ…『ぼうろ』か、美味そうだな」
今日の甘味の『ぼうろ』は、南蛮の焼き菓子で、砂糖、小麦粉、卵、牛乳を混ぜて丸く成形して焼いたものだ。
カリッとした軽い歯ざわりと、口中で溶ける食感が特徴で、美味しくていくつでも食べられてしまう、信長様もお好きな菓子だった。
早速に手を伸ばした信長様は、指先で一つ摘んで口に放り込むと、カリカリッと軽い音を立てて噛み砕く。
「ん、美味い」
「ふふっ…良かったです」
幸せそうに菓子を口にする姿が可愛くて、自然と頬が緩んでいた。
「貴様も食え。ほら……」
長く綺麗な指先が、ぼうろを掴み、私の口元へと差し出される。
「えっ…あ……」
(あ〜ん、しろってこと?っ…恥ずかしいけど…嬉しい)
恥じらいながらも口を開けると、信長様はニッと笑って口の中に入れてくれた。