第87章 向日葵の恋
「お待ち下さい、御館様っ。私は嫌です。安土へなど行きたくありません。見合いなどしたくありません。これからも、乳母として、姫様のお傍にいたいのです!」
退出しようと歩き出していた信長の足元に、にじり寄って跪くと、必死に訴える。
「お願いでございます、御館様。このお話、どうかお断り下さいませっ」
「…………」
「御館様っ…」
「黙れ、千鶴!貴様、俺の命に従えぬというのか?」
「そ、そのようなことは……」
「ならば、この話は終いだ。下がって、さっさと旅支度をしろ」
「………はい」
有無を言わせぬ信長の剣幕に、千鶴はそれ以上食い下がることは出来なかった。
荒々しく退出していく信長を見送ると、我慢できずにその場に崩れた。
(お見合いなんて…縁談なんて…どうして…安土に帰ったら、もうここには戻れない。姫様のお傍にはいられないんだ。御館様は、もう私を姫様の乳母として必要ではないと思われたから、嫁に行けと言われたの……?)
(秀吉様にも…もう逢えない…)
千鶴にとっては、父母と過ごした何十年よりも、結華の傍に仕えたこの六年の方が何よりも幸せだった。
素直で可愛らしい姫様
美しくて優しい奥方様
少し恐いけれど、男らしく頼もしい御館様
個性的で魅力溢れる武将達
城での生活は、辛いことなど一つもなく、楽しく充実したものだった。日々成長していかれる姫様を傍で見守り、このままずっと一緒にいること、それが自分の生き甲斐だと心からそう思っていた。
(秀吉様……)
甲斐甲斐しく姫様のお世話を焼きに来られる秀吉様を、いつの間にか好きになってしまっていた。
いつも明るくて優しい笑顔を絶やさない秀吉様が、一度だけ私に愚痴を溢されたことがあった。
あれは姫様が四つになられたぐらいの頃だった。奥方様になかなか次の御子が授からぬ、結華様が男子であったらよかったのに、と家臣達から心無い噂話が頻繁に聞かれるようになり、私も心を痛めていた時だ。
『結華様は、御館様に似た聡明な御子だ。女だ男だ、って見た目にばかり囚われて本質を理解できないのは…寂しいことだよな』
あの時の秀吉様の寂しそうな顔が、ずっと頭の片隅にあって、忘れられなかった。
この恋はきっと叶わない。
それでも、近くにいられるだけでいい、そう思っていたのに…私には、それすら願うことは許されないのだろうか……