第87章 向日葵の恋
翌朝、朝餉を済ませた千鶴は、急いで広間に向かっていた。
朝餉の後、結華の身支度を整えていた千鶴に、信長から急遽呼び出しがあったのだ。
(御館様から直々にお話があるなど、一体何事だろうか…何かお叱りを受けるようなことだったら、どうしよう…)
信長が千鶴を呼び出すことなど、これまでなかったことだ。
(御館様は、姫様や奥方様といらっしゃる時はとてもお優しいお顔をなさるけれど…何年経ってもやっぱりまだ少し恐ろしい)
乳母として城仕えをするようになって何年も経つが、世間では魔王とも呼ばれる信長の纏う雰囲気には、いまだ緊張することも多く、粗相をしないようにと、信長の前では自然と気を張ってしまうのだ。
「御館様、失礼致します」
「………入れ」
低く威圧感のある声にビクリと肩を震わせながらも、音を立てないようにゆっくりと襖を開き、室内へ足を踏み入れる。
上座に座する信長は、ゆったりと脇息に凭れ、手の内で鉄扇を弄んでいた。
パチンっと鉄扇が閉じられる音が、静かな室内に響く。
だだっ広い大広間に、信長と二人きり……否が応でも緊張する。
真夏の暑さが嘘のように、部屋の中は寒々しい空気が漂っていた。
「っ…御館様、お呼びと窺いましたが…」
深く平伏したまま、恐る恐る声をかけると、部屋の空気そのままの冷たげな声が降ってくる。
「面を上げよ、千鶴。貴様を呼んだのは他でもない…急だが、安土の実家へ里帰り致せ」
「は?え?あ、あの、里帰りとは一体どういう…」
「一昨日、安土におる貴様の父から文が届いた。千鶴、貴様に縁談が来ておるようだ。急ぎ実家へ戻り、父の意向に従って見合いを致せ」
「お見合い!?縁談って…そんな…御館様っ、私はどこへも嫁ぐつもりはございません。一生、姫様のお傍でお仕え致したいと思っております。縁談など、私には不要でございます」
「控えよ、千鶴。この縁談は俺の意向でもある。断ることは許さん。早々に支度をし、一両日中に出立致せ」
信長は、言うべきことを言うと立ち上がり、さっさと退出しようとする。反論は一切許さぬ、とでも言うように、上座から千鶴を鋭く睨み据える。
千鶴は、その目線の鋭さに、恐ろしくて怯みそうになるが、必死に口を開く。