第86章 真夏の船祭り
翌朝、信長はまだ日も昇らぬ内から起き出していた。
薄暗い寝所の中、褥から身を起こして気怠げに髪をクシャリと掻き上げる。
隣には、すぅすぅと幸せそうに寝息を立てて眠る朱里の姿があった。
無意識なのか、大きくなった腹を守るように丸くなって眠っている。
愛らしい寝姿に、自然と頬が緩む。
見ていると、触れたくて堪らなくなる。
口づけを落としたくなる……昨夜も全身余すところなく散々口づけたというのに。
だが……起こしてしまっては可哀想だと思い直し、己の欲を無理矢理抑えつけて、そっと寝所を出た。
シンと静まり返った室内は、夜明け前ということもあり、まだ涼しかった。
廻縁に出て欄干に身を預けると、空気の澄んだ空を見上げる。
淡墨の空は、東の方から徐々に青白んできており、日の出が近いことを思わせる。今日も暑い一日になるだろう。
備後での戦の事後処理が終わり、朝廷への報告もひと段落して、日常が戻りつつあった。
それでも、相変わらず、己のやるべきことは多い。
日ノ本が一つにまとまりつつある今、その全てを逐一自分一人で見ていくことなど不可能であろう。
合議制であれ何であれ、これからの日ノ本にとって然るべき体制を早急に整えていかねばなるまい。
いつ何時、この国が異国からの脅威に脅かされる日が来るやも知れぬのだから……
異国の優れた技術、豊かな物品に触れるたびに思う。
海の外の異国の国々に比べて、この国はなんと遅れているのだろうか、と。
今でこそ交易の相手として渡り合っているが、一たび隙を見せればこの国は容易く蹂躙されてしまうだろう。
だが、この国の誰一人として、今、そのような恐れを抱いている者はいない。
信長は、東の空に昇り始めた太陽に、己の手のひらをかざす。
この地を、民たちを、穏やかなこの生活を、己のこの手で守らねばならない。
日ノ本の民の、明るく幸福に満ちた未来を、俺が守ってやらねばならないのだ。
(この手は、愛する女の身一つ守れなかったと言うのにな…)
陽の光にかざした手のひらを睨みつける信長の口元に、自虐的な笑みが浮かぶ。
光秀の機転がなければ、恐らく朱里の命は失われていただろう。
何も手が打てず、不甲斐なくも信じるしかなかったあの時間は、信長にとって耐え難い苦痛だった。
(俺は強くならねばならない。今よりもっと強く…大切なものを守るために)