第85章 黒い影
何となく物語を捲る手が止まり、ぼんやりしていると、微かに廊下の床が軋む音が遠くから聞こえてくる。
それは、聞き慣れた足音だった。
「………朱里?」
小さな呼びかけとともに、襖が遠慮がちに開かれる。
「信長様っ!」
声を聞いた途端、居ても立っても居られなくて、走り寄っていた。
「お帰りなさいませっ…ご無事で…よかったっ…」
「っ…遅くなって悪かった」
大きな広い背中に腕を回し、ぎゅっと抱き締めると、信長様からも抱き締め返してくれる。
それから、確かめるようにゆっくりと身体中触れられた。
「っ…んっ…信長さま…?」
「…怪我はないか?どこか傷付いたところなどは…?」
「えっ……?」
ひどく頼りなげで不安そうな声は、いつもの自信たっぷりの信長様らしくなかった。
私を見つめる紅い瞳も不安げに揺れている。
(私が刺客に襲われたことを気にしていらっしゃるの?っ…信長様がこんな覚束なげなお顔をなさるなんて……)
「大丈夫ですよ。どこも傷付いてなどおりません。心配、して下さっていたのですか?」
「くっ…怖い思いをさせて悪かった。いかなる時も守る、と言っておきながら、俺は貴様を危険に晒してしまった。俺の手の届かぬ所で貴様が傷付くなど、あってはならぬことだ。貴様を失うかもしれぬ…そう考えただけで酷く恐ろしかった。貴様の無事をこの目で確かめるまで、どうしようもなく不安で堪らなかった。このような気持ちになったのは初めてだ。
朱里っ…貴様が無事でよかったっ…」
「信長様っ…」
子供のように頼りなげな姿に、思わず抱き着いて、その広い背中を宥めるようにトントンと撫でた。
「大丈夫…大丈夫です…ずっとお傍におります。貴方を一人になど致しませぬ」
「朱里っ…」
離さないと言うかのように強く抱き締められ、そのまましばらく黙って信長様の腕の中に身を委ねた。
言葉は交わさずともよかった。ただ触れ合っているだけで、身も心も満たされていくようだった。