第85章 黒い影
夜の帳が下りる頃、私は一人自室で愛しい人を待っていた。
読み始めた物語も、もう何冊目だろう。少し目が疲れてしまったようだ…時間潰しにと読み始めたのだが、いつの間にか随分と集中してしまっていたらしい。
じんわりと痛むこめかみを指先で揉み解しながら、そっと目を閉じると、目蓋の裏に愛してやまない人の顔が思い浮かぶ。
今宵はもう来られないかもしれない…そう思いながらも、先に休む気になれず、時間だけが虚しく過ぎていた。
「…姫様、もうお休みになられては?あまり遅くなられますと、お腹の吾子様にも良くないですよ?」
千代が心配そうに私の顔色を窺う。
(あぁ…千代にも心配させてしまったみたい…でも、今宵はどうしても信長様にお逢いしたい)
「ごめんね、心配させて。でも、もう少し待ちたいの。千代は遠慮せず、先に休んでね」
「姫様……」
備後国での戦に勝利し、信長様が大坂へ凱旋されたのは今日の昼過ぎだった。
足利義昭を捕縛し、毛利の残党を征伐した織田軍は、現地での戦後処理を終え、帰国の途に着いた。
今回、単独で九鬼水軍の指揮を取った光秀さんは、信長様より先に船で大坂に戻り、今回の戦のあらましを私に教えてくれた。
元就さんが生きていたこと
私を襲った侍女は、義昭が放った刺客だったこと
光秀さんは私が狙われることを知り、護衛の為に久兵衛さんを大坂に残してくれていたこと
「はぁ……」
短期間に様々なことが起き、私自身、まだ上手く気持ちが整理できていなかった。
信長様がご無事でよかった。
城門まで迎えに出て、お怪我のない姿を見た時、心から安堵した。駆け寄って抱き締めたかった。その身の無事を直に確かめたかった。
けれど…できなかった。
戦勝の喜びに顔を綻ばせ、互いの武勇を称え合う兵達の間で、信長様はひどく疲れたような顔をなさっていた。
私と目が合うと、心の内に溜めていたものを思い切って吐き出すかのように、ほうっと深く息を吐き、それから気まずそうに目を伏せられたのだ。
そのまま言葉を交わすこともなく城内へと入られ、すぐに秀吉さん達と戦の事後処理を始められ、それがこの時間まで続いているようだった。
『待っていろ』と言われたわけではないし、もう遅い時間だ、お疲れならば今宵はお一人で休まれたいかもしれない。
それでも…私は信長様を待ちたかった。