第85章 黒い影
ーガシャンッ!
派手な音を立てて茶碗が弾き飛び、溢れた薬湯らしき液体が畳に染みを広げていく。
「っ…あっ……」
割れた茶碗に気を取られ、女の拘束が緩んだ隙に、私は転がるようにして女の手から逃れていた。
「っ…貴女、誰なの?何故、私を?」
「随分と気の強い奥方様ですね。毒に気付かれるとは思いませんでした。さすがは魔王の寵妃…ですが、貴女にはここで死んで頂かなくてはなりません」
表情を崩すことなく言い放った女は、懐から素早く懐剣を抜くと、ゆっくりと距離を詰めてくる。
薄暗い部屋の中で、懐剣の刀身がギラリと光り、じりじりと近づいてくる。
逃げなくちゃ…そう思うのに、足が竦んで動けなかった。
女が残酷な笑みを浮かべて懐剣を振り上げるのを、なす術もなく見つめる。ゆっくりと…静止画のようにゆっくりと、刃が近づいてくる。
(あぁ…信長様っ…助けて…)
迫り来る恐怖に耐え切れず、ぎゅっと目を閉じた時、吹き抜ける微かな風を感じた。
ードンッ!ドサッ…
(………えっ?)
何かが倒れるような鈍い音に、恐る恐る目を開けると、目の前に女が倒れていて………
「奥方様っ…お怪我はございませぬか?」
「っ…久兵衛さん!?」
(久兵衛さんが、何故ここに…?私を、助けてくれたの?)
「あのっ、久兵衛さん…どうしてここに?この人は一体…?」
女は倒れたままでピクリとも動かない。
久兵衛さんは刀を持っているが、その刀身に血が付いてないところを見ると、峰打ちだったのだろうか……
「詳しい話は後で致します。間もなく、我が主君、明智光秀が信長様と共に大坂へ凱旋致しますれば……」
「!?」
ニッコリと微笑む久兵衛さんの笑顔に、強張っていた身体の力が抜けていくようだった。
(戦に勝ったの…?信長様がお帰りになる…ご無事で…あぁ…)
もうすぐ信長様に逢える……そう思うだけで、先程まで感じていた恐怖が嘘のように、気持ちが晴れ渡っていった。