第85章 黒い影
「ありがとう…けれど、薬湯とは?私は頼んでいないわよ」
「……東庵先生から、奥方様へお持ちするようにと。張り止めのお薬だそうです」
「東庵先生が?そう…」
(東庵先生は織田家の御典医。私も何度か診て頂いたことはあるけれど…おかしいわね)
普段私を診てくれるのは家康だ。
薬も、家康の処方してくれたものしか飲まないようにしている。
信長様同様、正室である私も、『毒』に対する警戒を怠らぬようにと言われているからだ。
それは私の側に仕える者なら皆、知っているはずのことだった。
(家康が戦で不在だからとはいえ、信長様のお許しもなく東庵先生が私に薬を処方するはずがないわ。それに、この人……)
「貴女、見たことがない顔ね。新しく入った方かしら?」
侍女が差し出す茶碗を受け取りながら、その表情を窺ってみたが、その顔にはやはり覚えがなく、感情が全く読み取れない顔だった。
(おかしいな…私に仕える侍女なら、千代が必ず事前に会わせてくれているはずなのに…本当に見たことない人だわ)
実は、信長様は、城勤めの者の顔を全て覚えておられるらしい。
私の身の回りのことをしてくれる奥仕えの女達の素性でさえも、全て把握しておられるそうだ。
素性の知れぬ刺客が城内に入り込まぬよう、細心の注意が払われている。
だからこそ……
(この人は…危険だ)
胸の奥に湧いた小さな違和感がムクムクと膨らんで、頭の奥で警鐘が鳴り響く。
(この薬はきっと飲んではいけない…今すぐ、ここから…この人から離れなくては…)
何故今、自分が狙われているのか、誰からの刺客なのか、そんなことは一つも分からなかったが、居ても立っても居られないようなひどい危機感だけは本能的に感じていた。
「っ…貴女はもう、下がっていいわよ」
「いえ、奥方様がお薬湯を飲み干されるまでは…さぁ、お飲み下さいっ…」
「っ…きゃっ、あっ…いやっ!」
平伏していたはずの侍女は、あっという間に私の身体を押さえており、強引に茶碗を口に押しつけてきた。
「やっ…いやっ、やめてっ!」
(っ…すごい力っ…)
力ずくで押しつけられる茶碗から必死で顔を背け、逃れようと身を捩る。唇が切れそうなほど固く口を引き結んで抵抗した。
(っ…やっ…信長様っ…)
ぐいぐいと押しつけられる茶碗を、渾身の力を込めて振り払った。