第85章 黒い影
だが、信長が揺らいだのは一瞬だけだった。
秀吉が慌てて駆け寄ってその身体に触れた時には、既に傍目には冷静さを取り戻しているように見えた。
「大事ない、秀吉。すぐに大坂へ知らせよ」
「はっ、直ちに!」
光秀に取り押さえられた義昭は、地に伏したままで高笑いを続けていた。
信長は、その様子を氷のように冷ややかな目で見下ろしていたが、いきなり義昭の胸倉を荒々しく掴み上げると、秀吉ら側近達までもがゾッとするような恐ろしい声音で囁いた。
「我が寵妃を害する者は、誰であろうと許さん。貴様には、死よりも恐ろしい方法で償ってもらう。簡単には死なせん…覚悟しておけっ!」
信長のあまりの剣幕に恐怖で震え上がった義昭を、床に叩きつけるようにして離すと、信長はそのまま無言で睨みつけた。
その目は、感情の一切を消し去ったような冷酷非情な魔王の目だった。
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一方その頃、大坂では……
戦の勝利と信長達の無事を願い、朝から仏間で一人、一心に祈りを捧げる朱里の姿があった。
(神仏に祈りを捧げるなんて、信長様が見たら『馬鹿馬鹿しい』とお笑いになるかもしれないけど…今の私に出来ることはこれぐらいしかないから……)
お腹の子の為にも無理は出来ない。城の中で、ただ静かに信長の無事を願い、祈るのみだった。
数日前、光秀さんが牢を破って姿を消した。
どこに隠し持っていたのか、金子で牢番を買収し、鍵を開けさせて堂々と出ていったのだと、三成くんが教えてくれた。
(光秀さんらしいけど…そうまでして牢を出なければならないようなことが起こってるってことだろうか?信長様の御身に何か危険が迫っているのでは……)
「どうか、どうか信長様のお身体が傷つきませんように…」
何度も願った願いをもう一度口にして、固く目を閉じたその時、人の気配がして、入り口の襖がスッと開いた。
閉じていた目をゆっくりと開け、振り返ると、薄暗い仏間に細く陽の光が射し込んでいた。
「奥方様、お薬湯をお持ち致しました。あまり根を詰め過ぎますとお身体に触ります。お休み下さいませ」
仏間の入り口を見ると、侍女が一人、茶碗の乗った盆を捧げて平伏していた。