第85章 黒い影
「帝の御意思だと?貴様が帝を唆して、勅命を出させたのだろう?まさに神をも畏れぬ所業よな。下賤の者が、高貴なこの私を弑するなど許されることではないぞっ!」
「なっ、言わせておけばっ…」
カッとなった秀吉が声を荒げるのを、目線だけで制した信長は、口元を不敵に歪ませて言い放った。
「ならば自ら腹を切るがいい。貴様も武家の頭領ならば、自害の心得ぐらい弁えておろう?」
「くっ……」
「光秀、此奴の縄を解いてやれ」
冷たく命じた後、信長は自らの懐剣を鞘から抜くと、躊躇いなく義昭の足元に投げて寄越した。
「御館様っ、何を…」
背後で秀吉が慌てるのを無視して、信長は、跪く義昭を冷たく見下ろす。
「さぁ、早くしろ。介錯ぐらいは、俺がしてやろう」
「くっ…信長っ…貴様ぁっ!」
屈辱に顔を紅潮させ肩を震わせていた義昭だったが、いきなり懐剣を鷲掴むと、奇声を上げて目の前の信長に向かっていった。
「御館様っ…危ないっ!」
「………ぬるいっ!」
秀吉が前に出ようと動くよりも早く、信長の足は、懐剣を持つ義昭の手を勢いよく蹴り上げていた。
「ぐわぁっ!」
無様に倒れ伏した義昭を、光秀が素早く取り押さえていた。
「最期の最期まで情けないことだな。貴様の処遇は帝の御判断を仰ぐ。喜べ、再び京の地を踏めるのだからな……光秀、連れていけ」
「はっ!」
茫然自失で、光秀に引き摺られるようにして連れていかれる最中、義昭はいきなり高らかな笑い声を上げ始める。
静かな船上に異常な笑い声が響く様子は異様で、ついに気が触れたかと、武将たちは一様に怪訝そうな顔になる。
「信長よ、貴様はこれで私に勝ったつもりか?愚かよのぅ…今頃は己の最も大事なものが失われているというのに、貴様は何も出来ぬのだからな」
「………何のことだ?」
「分からぬか?貴様の大事な寵妃のことだ。あぁ…今頃は私の仕向けた刺客が、その命を奪っておる頃だ。何が天下布武だ。貴様は、己の大事なもの一つ守れず、一生後悔に苛まれるのだ。くくっ…せいぜい苦しむがよいわっ」
「っ…何をっ……」
(刺客…だと?朱里の…命が…狙われている、だと…)
情けなくも、さぁっと血の気が引いてグラリと身体が揺れた。
足元が崩れていくような心地がして、呼吸が激しく乱れていた。
「御館様っ…」