第85章 黒い影
遡ること数日前
大坂城の牢で光秀は、薄暗く冷たい石造りの床の上で姿勢を正して座り、何事か考えるように目蓋を閉じていた。
昨日、秀吉が来て『明日、勅命を奉じて備後へ出陣する』と伝えてきた。今頃は、どの辺りまで行軍が進んでいるだろうか。
ここまでは思いどおり、己の描いた絵図どおりに事が運んでいる。
「………光秀様」
声を潜めた囁くような呼びかけに、ゆっくりと目を開けると、久しぶりに見る腹心の姿が目の前にあった。
「戻ったか、久兵衛。無事で何より」
「はっ!」
牢の柵越しに見る主君は、別れた時と変わらず飄々としていて、幽閉から随分経つというのに、やつれた様子などは微塵もなかった。
予想していたとはいえ、思わずホッと安堵の溜め息を吐いてしまった。
「……して久兵衛、首尾は?」
主君の鋭く刺すような視線に、緩みかけた緊張の糸が再びピンッと張り詰める。
「はっ…将軍の下に集まっていた反織田勢力の者達の中には、勅命が出たことで及び腰になっている者も多く…信長様の備後への進軍は思った以上に容易いものになるかと」
「そうか、それは何よりだ。御館様に向けられる危険は、少ないに越したことはないからな。他にはあるか?」
「実は……将軍の御座所で、行方不明の『謀神』の姿を見ました。遠目からであったので、しかとは申せませんが……」
久兵衛の言葉に、光秀は驚いたように目を見開いた。
「!? くっ…将軍様はまたも毛利と手を組んだか。元就が生きていたとはな…なかなかにしぶとい男だ。余程、御館様を討ちたいらしい。さて、久兵衛、長らくご苦労だったな。屋敷に戻り、暫く休め。俺は…そろそろ動くとしよう」
ニヤリと不敵に笑う光秀の顔は、戦場で見せる狡猾な武将の顔だった。
「はっ!光秀様、それともう一つご報告が…」
「……………」
久兵衛が秘かに伝えた知らせを黙って聞いていた光秀だったが、その卑劣極まりない企みに、表情を酷く歪ませる。
「愚かな将軍だ。あれに手を出せば、魔王のお怒りは計り知れないだろうに、な」