第85章 黒い影
翌朝、実にすっきりとした顔付きで出陣される信長様を見送る為、私は城門前に立っていた。
(信長様は『身体に障るといけない、見送りは部屋まででよい』と仰ったけど、これまでにない大切な戦の出陣だもの、きちんとお見送りしたいっ…)
戦の先行きに不安がある訳ではなかった。
勅命が出されて以降、各地の大名からも織田家を支持する旨の意思表明が次々と届いているということだったし、此度の戦、将軍に味方する者は既に少なくなっているだろう。
「朱里っ……」
「信長様っ…」
出陣前の高揚感で騒めく兵達の前に、愛馬『鬼葦毛』に跨った黒い甲冑姿の信長が姿を見せると、その場の空気が一瞬で変わった。
ザワザワとした喧騒は瞬時に止み、代わりにピリリとした緊張がその場に広がる。
戦に向かう信長が、纏うその雰囲気は、冷酷非情な魔王のそれだった。
(昨日までの信長様とは別人みたい。長らく大きな戦がなかったし、私には優しいお顔ばかり見せて下さるから忘れていたけど…これが武将としての信長様のお顔なのだわ)
『君は戦場での信長を知らないんじゃないのか?』
以前、信玄様に言われた言葉が頭を過った。
(そうかも知れない…でも、戦場で心を鬼にする信長様もまた私の愛した人だ)
兵達の注目が集まる中、颯爽と手綱を捌いて朱里の前に馬を止めた信長は、愛馬の首筋をトントンと宥めるように叩く。
「朱里、留守中何かあったら、すぐに知らせよ。くれぐれも無理はするな」
「ふふ…大丈夫です。信長様がお帰りになるまで、大人しくしています。ご無事のお戻りを、お待ちしていますね」
「ああ、すぐに戻る。帰ったら、昨夜の貴様からの奉仕の礼をせねばな……たっぷりと礼を尽くしてやるゆえ、愉しみに待っておれ」
「なっ、何をっ…!?」
こっそりと囁かれた甘い言葉に、すぐさま頬を朱に染める私を見て、高らかに笑う信長様からは、出陣前の緊張感など微塵も感じられなかった。
「……では、行ってくる」
馬上から伸ばされた手が、私の頬に優しく触れる。
一瞬触れただけですぐ離れていった温かい手に、名残惜しい気持ちをグッと堪えて、精一杯微笑んでみせた。
「いってらっしゃいませ、信長様。御武運をお祈りしております」
遠ざかっていく長い長い隊列を見送りながら、信長様の黒い甲冑が見えなくなるまで、私は門の前に立ち続けた。