第85章 黒い影
備後国 鞆の浦にて
将軍の御座所となっている屋敷では、苛立ちを含んだ甲高い声を上げて、己の足元に跪く側近たちを激しく叱責している男がいた。
「真木島め、しくじりおってっ…おのれ、信長!悪運の強い男よ」
「誠に申し訳ございませぬ。ですが、我が主、明智光秀は囚われの身となろうとも、上様への忠義に変わりはございません。来るべき戦の折には、必ずやご加勢を致す所存」
京の公家の如き高価な衣装に身を包み、苛々と扇子を弄ぶ義昭の前で深く頭を垂れた久兵衛は、目の前の男に対する酷い嫌悪感を心の奥に押し込めて、言う。
「ふんっ!明智、のぅ…あやつ、易々と投獄されたというではないか?全く、アテにならぬ男ばかりよな」
義昭から馬鹿にしたような嘲笑を浴びて、主を侮辱された久兵衛はぐっと怒りを堪えて下を向いた。
光秀の命を受け、残った真木島の仲間とともに秘かに大坂を出た久兵衛は、備後国へ入り義昭と対面していた。
京を追われ、従う者も少ないかと思いきや、将軍の名の下に各地に息を潜めていた反織田勢力に声をかければ、味方する者も案外多いらしく、義昭の御座所には予想以上に人が集まっていた。
その中には、当主不在の毛利の残党も含まれているようだった。
それでも正面切って今の織田軍と戦になれば、兵力は圧倒的に織田軍が優位であった。
(あとは、朝廷から将軍征伐の勅命が出されれば……)
勅命を奉じた戦になれば、織田軍に義がある。義昭に味方する者も減るだろう。
戦が始まるまで敵の内情を探り、牢の中にいる光秀に伝える、それが久兵衛に与えられた使命だった。
「下賤の者がこの私を討とうなどと……愚かなこと。己の身の程を弁えぬ、うつけ者には罰が必要よのぅ。
信長に、大切なものを失う絶望を、味わわせてやろうぞ」
「……………」
高らかな笑い声を上げて太々しく笑う義昭を、久兵衛は、汚れたものを見るような冷めた目で見ていた。