第85章 黒い影
「お前は何も心配するな。さぁ、奥方様、もうお部屋へ戻られよ。いつまでも、こんなカビ臭い所にいては、腹の子に良くないぞ?」
(……やっぱり簡単には話してくれないか…)
堅く閉ざされた光秀さんの心に、私は触れられないのだろうかと、諦めかけた、その時だった。
「光秀、てめぇ、好き勝手言いやがって…どういうつもりだ?」
背後から聞こえた、苛立ちを含んだ声に振り返ると、そこには秀吉さんが立っていた。
「秀吉さんっ!どうして……」
「朱里が牢へ向かってるのを偶然見かけて、追ってきた。悪いけど、話は全部聞かせてもらったぞ」
(全然、気付かなかった……)
「盗み聞きとは悪趣味だな、秀吉」
「黙れ。あれこれ散々やらかしてるお前が言うな」
秀吉さんは牢の前で足を止め、柵を手の甲で無造作に叩いた。
「邪魔だな。今すぐこれを取っ払って、お前のその憎たらしい顔を殴りてぇ」
「柵があって助かった。牢とは時に便利だな」
秀吉さんの拳に叩かれた柵が、ガシャンッと派手な音を立てて揺れるのを、光秀さんは一歩下がって余裕の表情で見ていた。
(光秀さんはこんな時でも冷静なんだな…)
「で? お前こそ、どうして自分からこんなカビ臭い所にぶち込まれてるんだ」
(そうだ、話の途中だった!)
「光秀さん、お願いしますっ!秀吉さんに全部話して下さい!」
「やれやれ…これは、二人とも話すまで帰ってくれなさそうだな。身重の奥方様が、こんな所まで来たせいで体調を崩されたとあっては、それこそ一大事だ。全く…二人揃って融通が利かぬな。
………時に秀吉、勅命は下されたか?」
「は?あぁ…明日、帝のお使者が大坂へお見えになる。義昭が信長様暗殺を企てたこと、帝は重く受け止めて下さった。朝廷のお墨付きがあれば、もう何の遠慮もいらん。今度こそ義昭を討つ!」
「そうか…首尾は上々だな」
聞き逃すほどの小さな声で呟かれた言葉は、将軍の側近と通じていたと疑われている人には似つかわしくないものだった。
「なぁ、光秀、お前まさか……」
(っ…光秀さんはもしかして、朝廷から『征伐命令』を引き出すために、わざと刺客に信長様を襲わせたの……?)