第85章 黒い影
(人生初だな、牢屋を訪問するなんて…………)
大坂城の一角にある牢獄に、私は身を縮めながら足を踏み入れた。湿った空気のこもる薄暗い通路を真っ直ぐ進み、最奥の柵の前で足を止める。
(牢屋の番人さんに聞いた話だと、ここに入れられてるはず……)
「っ………あの、こんにちは」
「これは珍客だな」
暗がりの中、持ってきた灯りを上に掲げて目を凝らしてみると、牢の中でゆったりと胡座を掻いていた光秀さんが、立ち上がって柵の方へと歩いてくるのが見えた。
互いに歩み寄って、私達は柵越しに対峙した。
(目線がいつになく鋭い……私の方が牢屋の内側にいる気がしてきた)
鋭い視線と、張り詰めた空気を身に纏う光秀さんの雰囲気に圧倒されて、すぐには言葉を発することが出来なかった。
冷や汗が背中を伝い落ちるけれど、ここまで来たら引き返せない。
互いに見つめ合ったまま……先に口を開いたのは光秀さんだった。
「お転婆な奥方様は、一体どんな術を使ってここへ入り込んだ?」
「入り口の番をしている人に無理を言って入れてもらいました。『裏切り者の明智光秀が今どうしてるか、何となく興味があって、見てみたい』って言って」
「は………?」
「『私の言うことを聞かないと、信長様に言いつけて罰を下してもらう』とも言いました」
「……………」
驚いたように目を丸くする光秀さんと、柵越しにしばらく無言で見つめ合っていると、牢獄に不似合いな愉しげな笑い声が響き渡った。
「くっ、くくくっ…これは傑作だ、驚いた。純粋無垢な小娘だと思っていたお前に、そんな策を弄する才能があったとは…御館様がお知りになったら、さぞかし驚かれるだろうな」
「やっ…信長様には言わないで下さい」
「ふっ…そんな小悪魔な可愛いお前も、御館様はお嫌いではないと思うぞ。無論、俺も、な」
「っ…揶揄わないで、光秀さん」
「ふふっ…冗談はさて置き……それで? 我が儘な奥方様を演じてまで、俺に会いに来た理由は?」
それまで愉しげに笑っていた光秀さんの顔が、唐突に真面目なものに変わる。
目の奥が、キラリと妖しい光を放っていた。