第85章 黒い影
翌朝
「おはようございます、御館様。お目覚めでしょうか?」
いつものように信長様を天主に迎えに来た秀吉さんは、常と何ら変わることのない様子で、私にも爽やかな笑顔を見せてくれた。
「秀吉さん、おはよう!あのっ…怪我は大丈夫?昨日は会えなかったから、心配してたんだよ」
「おぅ、大したことない。擦り傷だ、心配いらないぞ」
ニッコリ笑って腕を上げてみせる秀吉さんの姿に少し安心したものの、昨日、三成くんから聞いた話は、私の心に暗い影を落としていた。
昨夜は、信長様とも詳しい話は出来なかった。
光秀さんのことは心配だったし、信長様がどのように考えておられるのか知りたくもあったけれど、女の私が政に口を挟むことは憚られたからだ。
「秀吉さん、あのっ…大丈夫?そのっ…色々と…」
「ん?あぁ……光秀のことか?」
チラリと信長様の方を見た秀吉さんは、言いにくそうに口籠もる。
信長様は私達の会話に口出しする気はないらしく、無言で私達から視線を逸らしてくれた。
「光秀さんの様子はどう?」
「相変わらず、だんまりだ。あの野郎っ、ふざけてやがる…」
秀吉さんは腹立たしげな口調で言うものの、その表情は何となく寂しげだった。
「秀吉さん…」
「ん、あぁ…ごめんな。朱里は何も心配しなくていいからな」
いつものように私に対して優しい兄のように振る舞う秀吉さんは、少し痛々しかった。
「秀吉さんは…光秀さんが本当に裏切りを…信長様に謀叛を計画してたって、そう思ってるの?」
「っ…いや、俺は…この後に及んでも、そう思えない自分に腹が立つ。あいつを…光秀を信じたい。信じさせて欲しい、って心からそう思ってるよ」
辛そうに顔を歪める秀吉さんを見ているのは、私も辛かった。
「秀吉、朱里」
それまで黙って私達の話に耳を傾けていた信長様は、低く落ち着きのある声で私達二人に呼びかける。
「……目に見えているものがいつも正しいとは限らん。貴様らの知る光秀の姿、それが彼奴の真実かどうか…それを決めるのは貴様ら自身だ」
「信長様っ…」
「っ…御館様っ…」
全てを悟っているかのように、信長様は冷静だった。
(私も、秀吉さんと同じ…光秀さんを信じたい。信じさせて欲しい)