第85章 黒い影
視察を中止した信長たちが城へ引き返して、一刻も経たない頃。
襲撃のあった林に身を潜め、事の成り行きを見守っていた一人が、光秀の御殿へと駆け込んでいた。
「戻ったか、久兵衛」
息を切らして室内へ駆け込んできた重臣とは反対に、光秀は悠々と文机に向かい、文を認めていた。
「光秀様、厄介なことになりました。信長様を襲撃した真木島殿の一団は、秀吉様に全員捕まり……あろうことか、光秀様が共犯者だと、その場で自白を……っ」
「ほう、そう来たか」
大して驚いた様子もなく、光秀が眉を軽く上げる。
口元には微かな笑みすら浮かんでおり、その余裕ある主君の姿に久兵衛は戸惑いを隠せない。
「如何致しましょう…このままでは……」
「真木島殿の手勢が大坂城下に数名残っているはずだ。お前は奴らと合流し、こう伝えろ。『この光秀、たとえ牢にあっても、信長への謀反を諦めない』とな」
「なっ………」
「そして、お前は奴らと共に大坂を去れ。暗殺が失敗に終わった今、奴らは備後へ引き上げるだろう。いずれ戦になる。それまで奴らの懐へ入り、その内情を探れ」
「っ……畏まりました」
「時が悔しい、すぐに発て。追っ手が放たれるまで間がないだろう」
「はっ」
苦しげな表情を浮かべた久兵衛が音もなく立ち去ると光秀はゆっくりと立ち上がり、羽織の襟を整えた。
「では、城に出向くか。秀吉も、迎えを寄越す手間が省けるだろう」