第85章 黒い影
「あの…また戦になるのですか?」
三成の指揮の下、軍備を整えつつある今、城内も日々慌ただしくなっていた。
久しく感じていなかった戦の前の緊張感に、心を乱されているのだろうか…信長を見つめる朱里の瞳は不安げに揺れていた。
「朝廷から正式に勅命が出ればな……義昭を攻める」
努めて冷静に淡々と告げる信長の声は、迷いなど微塵も感じさせないものだった。
足利将軍を攻めるなど、立場上難しいことも多いだろうに、そんなことを少しも感じさせない。
いつもどおりの堂々たる態度を見せる信長だった。
(信長様にとって、こたびの戦もまた、ご自分の為すべきこと『天下布武』をなす為には避けて通れぬ必要なことなのだ)
「朱里、貴様は何も案ずることはない。産み月まで、城の中で心穏やかに過ごしておればよい。義昭など、敵の内にも入らん小者だ、大した戦ではない」
「信長様……」
安心させるように、ふわりと包み込むように抱き締められる。
不安に揺れる心の内まで温かくしてくれるように、その腕の中は温かくて安心できた。
兵たちの訓練は、城下の外れの開けた平原で行われている為、そこまでは馬で森を抜けて移動する。
兵たちの日頃の鍛錬の様子を見るために、抜き打ちで行われる今回の視察は、事前に誰にも知らされることはなく、信長の供をするのは、数人の馬廻衆と秀吉と、その家臣数名のみであった。
この日、信長が少人数で城を出ていることを知る者も、また少なかった。
「御館様、間もなく兵たちの訓練場に着きますが、少し離れた丘の上から視察できるように手筈を整えておりますので、この先で馬を降りましょう」
「あぁ……」
隣で馬を並べて進む秀吉に返事をしながらも、信長は微かに感じる周囲の空気に違和感を覚えていた。
風にそよぐ木の葉のサラサラという音に混じって聞こえるのは、下葉を踏む抑えた音。
不意に、信長の顔から表情が消えた。冷ややかな瞳が、林の奥をひたと見据える。
「秀吉、どうやら俺に客のようだ」
「はっ…」
秀吉は無言で、刀の柄に手をかけると同時に、視線を走らせ、周囲の部下達に目で合図を送る。
「飛ばすぞ。皆、抜かるなよ」
「はっ!」
秀吉を筆頭に、隊が一気に速度を上げる。それと同時に、林の陰から馬がどっと飛び出してきた。
馬を駆る男たちは、全員が黒装束を身に纏っている。