第85章 黒い影
「かつては同じ主君に仕えた者同士、明智殿を信じられぬ訳ではないが…貴殿は今や信長からの信も厚い。
『信長は明智に命じて、朝廷に将軍職返上の勅命を出すよう裏から圧力をかけている』という噂もございますぞ」
「それは…私の立場もお察し下さい。だが、信長が亡き者となれば後ろ盾を失った朝廷は勅命など容易く出せぬはず……朝廷が決断を下す前に、信長の首を取らねばなりますまい」
「それはそうじゃが…大坂城の警備は堅い。城内に刺客を送り込むことは容易ではないぞ」
「ご案じ召さるな。そのことで朗報がござる。信長は近々、兵の訓練を視察する為に城外へ出る。急遽決まった抜き打ちの視察ゆえに供回りは極少数、極秘の外出となる。そこを襲えば……」
ニタリと、わざと下卑た笑いを浮かべてみせる光秀に、男もまた残虐な笑みを返す。
「その情報に嘘偽りはないであろうな?」
「無論のこと…この光秀、誠心誠意お誓い申し上げよう」
視察の詳細は分かり次第連絡する旨を約し、去っていく真木島の後ろ姿を見送っていた光秀の元へ、久兵衛が音もなく忍び寄る。
「……久兵衛、お前も当日、奴らに同行せよ」
「はっ!」
「くくっ…首尾良くやってくれるとよいが…」
じっとりと汗ばむ襟元を寛げ、風を入れながら歩き出す。
間もなく梅雨が明ける。夏の訪れが近いこの時期は、夜でも少し蒸し暑く、軽く動いただけでも汗が滲むようになってきていた。
うっすらと額に浮いた汗を指先で拭い、顔を上げた光秀は、いつの間にか空に浮かんでいた明るい月の光に気付いて、目を細める。
闇を消し、地上を煌々と照らす光は、どこまでも明るい。
(俺の闇を消し去り、輝く光の下へ導いてくれるのは……あの御方しかいない。あの御方の為ならば、どのような非難を浴びようとも悔いはない)