第85章 黒い影
己を呼び止める秀吉の声を無視して背を向けると、光秀はそのまま振り返ることなく城を出た。
薄闇が迫る中、御殿へ向かう光秀は口の端を小さく緩める。
(全く…彼奴は真っ直ぐ過ぎる。やはり秀吉は、俺と違って表の道を行く男だな)
自分とは正反対の男
曲がったことを嫌い、不器用なほど真っ直ぐに御館様を信じて止まない男
己には無縁の、秀吉のその愚直さは、闇に身を置く光秀には、時に眩し過ぎた。
「………光秀様」
「……久兵衛か、どうした?」
辺りに広がる闇に紛れるかのように姿を見せた己の腹心に、光秀はキラリと目を光らせる。
「この先の寺で、真木島殿がお待ちです」
「………そうか。では、参ろう。くくっ…さぁ、狐と狸の化かし合いといこうじゃないか」
ニヤリと不敵な笑みを浮かべ、光秀は迷いのない足取りで歩き出す。
やがて、城下の外れまで辿り着くと、ひと気もなく鬱蒼と木々が生い茂る小さな寺の境内へと入っていく。
「………明智殿」
不意に囁くような小さな声で呼びかけられ、薄闇の中で目を凝らすと、そのぼんやりとした闇に溶け込むかの如く地味な風貌の男が立っている。
「真木島殿。京での一瞥以来ですな。あの御方は、変わらず御息災であられますか?」
「無論のこと…憎き信長の首を、今か今かと待ちわびておられるぞ」
真木島と呼ばれた男は、ニヤリと不敵な笑みを浮かべつつ、声を潜めて光秀の傍へと近づいた。
「しかし、貴殿から数年ぶりに文を貰った時には驚いた。明智殿は今や、信長の左腕…なくてはならない男だと皆が知っている。
これはまたどのような策略かと、俄かには信じられませんでしたからな」
探るような目つきで自分を見てくる男の視線を、光秀は素知らぬ顔で受け流す。
「私は元は幕臣、あの御方を再び京へ昇らせ参ることこそ、我らが臣下の務めと心得ております。
……信長などという卑しき下賤の者が治める天下など笑止千万。
高貴なあの御方を、共に盛り立てて参りましょうぞ、真木島殿」
「おうっ!頼もしき限りじゃ……が、その言葉、誠に信じてもよいものか?あの御方への忠義は変わっておらぬと、何をもって信じればよい?」
地味な男の目に、似つかわしくない狡猾そうな色が浮かぶ。
「ふむ…私に証を立てろと仰るのですな…」