第85章 黒い影

その後も信長は義昭に対して、横領した土地の返還と将軍職の返上を求める文を送っていた。

戦の準備を進めつつ、無駄とは分かっていながらも話し合いによる解決を模索していたのだ。

今の織田家の武力で備後国へ攻め入れば、義昭など簡単に討ち取れる。
だが、信長には、武力で他を圧倒するやり方を変えたい、という思いもあった。

(義昭は腹立たしい男だが、武を持って制するだけでは、これからの日ノ本は成り立たん。
大人しく将軍職を返上させ、彼奴をどこぞに幽閉できれば、上手く収まるのだがな……)


光秀には、引き続き秘密裏に朝廷との交渉に当たらせている。
いつものことだが、京へ行ったきり数日連絡がない。
独断での行動も多い光秀を、俺自身は奴の好きなようにさせているが、朝廷や幕府との繋がりが深く、行動の読めない光秀をよく思わない重臣たちは多いのだ。

今回も、いつの間にか姿を消した光秀に非難が集まっている。



「信長様、軍備は順調に整いつあります。兵たちの仕上がりもまずまずです」

手元の報告書に目を落としながら三成が言うのを、信長は満足そうに聞いていた。

「朝廷との交渉は如何でしょう？光秀様から何か連絡はありましたか？」

「………いや、ないな」

「ったく…あいつは何をやってるんだっ！連絡一つ寄越さないで…京にいるのかも怪しいもんだな」

憤りを隠さぬまま、秀吉が声を荒げるのを、たった今まで聞いていたかのように、するりと広間の入り口が開き、光秀が姿を見せる。

「心配して頂けて光栄だな」

「光秀っ！てめぇ、今までどこにいた？出ていったきり、報告もないなんて、いい加減にしろよ」

「色々と忙しくてな。すまなかったな」

全く悪びれもせず謝罪の言葉をさらりと述べる光秀に、秀吉は、苦虫を噛み潰したような苦々しい顔になる。

「………光秀、報告を」

気まずくなった場の雰囲気を引き締めるように、上座から信長の冷静な声がかかる。
一瞬で静かになった広間で、光秀は淡々と報告を始めた。


静まり返った場で、光秀からは、帝が近いうちに義昭へ将軍職返上の勅命を出されること、大人しく応じぬ場合、織田家へは義昭捕縛の勅命を出される意向であること、などが報告される。


「捕縛だと？討ち取れという御命令ではないのか？」

光秀の報告を黙って聞いていた秀吉は、至極不満そうに呟く。