第85章 黒い影
執務室に着いた信長は、何事もなかったかのように文机の前に腰を下ろすと、山積みに積まれた報告書に手を伸ばす。
信長の後を追って執務室に入ってきた秀吉は、いつもの口癖のように叱言を言いかけて……何となく言えずに、口を噤む。
「……何だ?言いたいことがあるなら、言え」
戻るや否や早々に政務に集中し始め、手元の報告書から目線を上げることもしない信長に、秀吉は何とも気まずい気持ちになる。
「……いえ、何もございません」
「ふんっ、貴様が叱言を言うのを我慢するなど、珍しいこともあるものよ」
「それはっ…御館様を思えばこそ…お察し下さい」
「……猿め」
チッと聞こえるように舌打ちしながらも、信長の口元は微かに緩んでいた。
秀吉とのこのようなやり取りは、毎度鬱陶しく思う反面、どこか楽しくもあったのだ。
「そういえば御館様、先程、朝廷から文が届いたのですが…」
思い出したように秀吉が恭しく取り出したのは、黒漆塗りの見事な蒔絵が施された文箱だった。
受け取って開けて見ると、上品な香の香りがふわりと香り、中に一通の文が入っている。
秀吉の熱っぽい視線を感じつつ、文を開いてゆっくりと目を通していった。
「っ…はあぁ…」
文を読み終えて、張り詰めていたものを息と一緒に一気に吐き出すと、思った以上に大きな溜め息となって出てしまった。
「御館様、朝廷は……帝は何と?此度は何のお話ですか?」
秀吉は、文と俺の顔を見比べながら、遠慮がちに尋ねてくる。
俺の様子から、あまり良い話ではないと悟ってはいるのだろう。
「陰謀好きの懲りぬ将軍様が、またも面倒を起こしているようだ」
「っ…足利…義昭…ですか、一体何を…」
信長が無造作に投げ寄越した文を、恭しく拝し奉る秀吉を可笑しく思いながら、信長は、足利将軍の、狡猾で人を人とも思わない侮蔑を含んだ目つきを思い返していた。
自分以外の人間は全て下賤の者と言い放ち、地べたを這う虫けらを見るように見下げるあの男の目を、信長は反吐が出るほど忌み嫌っていた。
当初こそ将軍として立てていたが、お互いの考え方の違いは甚だしく、すぐに袂を分かった後は、義昭は何かと信長に楯突いてきた。