第85章 黒い影
京を追われ、鞆の浦で大人しくしていればよいものを、毛利の旧臣を唆して俺に謀叛を起こさせたり、各地の大名に『信長を討て』と命じてみたり、全くもって身の程を弁えぬ。
織田家の力をもってすれば、大きな後ろ盾もない今の義昭を討つことなど容易いが、彼奴が将軍である限り、表向きそれは出来ない。
下剋上が横行する世で、形ばかりの厄介者といえども、将軍殺しは聞こえがよくない。
「義昭め、朝廷の直轄地を横領するなど血迷うたか…帝が大層御立腹のようだ。『将軍職を返上させる。義昭を討て』と仰せだ」
「全く、大人しく出来ぬ御仁ですな。しかし、帝の命ならば、これで堂々と引導を渡せます。一気に攻め落としましょう、御館様っ」
秀吉にしては珍しく、血気盛んに言う。
「それについては異論はないが……義昭に将軍職を返上させる代わりに、俺に『征夷大将軍』の職を受けよ、と書いてあるぞ。
以前、官位は全て断ったはずだが…朝廷はどうしても俺を官位で縛りたいらしいな」
「っ…しかし、関白や太政大臣といった公家の官位と違い、『征夷大将軍』ならば武家の最高位、幕府も開けます。御館様にとっても
悪いお話ではないかと……」
「たわけっ…俺は、人から授けられる官位などなくとも、天下を治めてみせるわ。生まれや身分に左右されない、公家も武士も町民も百姓も……誰もが思うままに生きられる世を創ること、それが俺の望みだ。秀吉、貴様も同様であろう?」
「っ…はっ!」
秀吉は武士の生まれではない。此奴もまた、生まれや身分といった、くだらぬもののせいで虐げられてきたのだ。
「身分制度を否定する俺が、朝廷から官位を授かるなど、おかしな話だ。幕府など開かずとも、天下布武は成し得る。将軍職など、俺はいらん」
「はっ!ごもっともな仰せです。ですが、義昭をこのままには出来ませぬ。朝廷からの討伐命令も無視出来ませぬし…戦支度を致しますか?」
「ああ、もう少し義昭の様子を詳しく探らせよ。朝廷との交渉は、光秀にさせる」
「畏まりました」
義昭が大人しく俺に従うはずがない。
先の本能寺の襲撃後、毛利元就の行方が定かでないこともあり、毛利の旧領は織田の傘下で大人しくしているが、義昭が唆せば、どう転ぶか分からん。
恐らくまた戦になるだろうが、今度こそ、きっちり決着を付けてやる。