第85章 黒い影
「御館様っ、このようなところに…お探ししましたぞっ!」
廊下の先から現れた忠臣の姿を見て、信長は秘かに溜め息を吐く。
「休憩だと言って急に席を立たれたまま…一体、どこに居られたのです?? ああっ、ちょっとっ…」
眉間に皺を寄せて早足で近寄って来る秀吉の横を、何事もなかったかのようにスルリと通り抜けた信長は、ヒラヒラと手を振りながら秀吉を無視して歩いて行く。
(此奴の相手をすると面倒だからな…ここはサラリと流しておくに限る…)
「ちょ、ちょっと…御館様っ!?」
「さっさと来い、秀吉。政務の続きだ」
「なっ!?お、お待ち下さい、御館様っ!」
慌てて後ろに従う秀吉に、信長は振り向きもしなかったが、その表情は至極穏やかだった。
チラリと見えたその穏やかな横顔に、秀吉は安堵する。
(朱里のところに行っておられたんだろうな。良い知らせでもあったのだろうか…。
朱里が床に臥してからというもの、御館様は晴れぬお顔をなさることが多かったが…久しぶりにあのような良きお顔を見た気がする)
思えば、朱里が長らく床に臥すなど、これまでになかったことだった。
小田原の北条家から御館様の元へ来て以来、大きな病などすることもなく、いつでも明るく元気な姿を見せていた。
その、美しい花が綻ぶような朱里の笑顔は、御館様だけでなく、俺を含めた武将達や城の者たちをも癒してくれていたのだ。
腹の中の子が流れかけて絶対安静になり、朱里が床から起き上がれなくなると、城内は灯りが消えたように静かになってしまった。
それほどに、朱里はもう、織田家にはなくてはならない存在になっていたのだ。
もちろん、御館様にとっても、だ。
御館様の憔悴ぶりは、長らくお傍にお仕えする俺でも、目を覆いたくなるほどだった。
御館様と朱里……二人はどちらが欠けても、駄目なのだと、今回の件で改めて痛感した。
互いになくてはならない、純粋で、それでいて危うい愛のカタチ。
秀吉は、何者にも邪魔をされることなく、二人の愛が永遠に続くことを願わずにはいられなかった。