第85章 黒い影
「わっ!?」
あまりに唐突な動きに、朱里も驚いたように声を上げる。
「こやつ…また俺を蹴りおって…」
「ふ…ふふっ…こんなに強く蹴られたのは久しぶりです。ふふっ…よかった、元気なのね」
よしよし、と宥めるように腹を撫でている朱里の様子は、まさに母親という感じで微笑ましいが…蹴られたこちらとしては、イマイチ納得がいかん。
(朱里に少し激しめに触れるたびに、毎度毎度蹴られるのだが……これは、わざとなのか?)
モヤモヤする気持ちで、蹴られた手をじっと見ていると、朱里が声を上げて笑う。
「信長様ったら、そんな難しそうな顔しちゃって…ふふっ…もぅ、あぁ、可笑しいっ…」
笑いが止まらぬ様子の朱里をジロリと睨んでやるが、心の内は温かく満たされていた。
(やはり俺は、こやつが笑っている姿が一番好きだ)
こんな些細なやり取りがこの上なく幸せで、朱里と二人で過ごす、このような甘い時間が、今の俺には何よりの癒しだった。
他愛ない話をしたり、軽く触れ合ったりしながら二人きりの時間を過ごし、名残惜しくはあったが、政務へ戻るために朱里の自室を後にする。
執務室へと続く廊下を歩いていると、軒先から射し込む日差しが強く、眩しいぐらいだった。
七夕が過ぎてから連日降り続いていた雨も、ここ数日はパタリと止んでいた。
もう間もなく梅雨が明けるだろう。
梅雨が明ければ、また今年も暑い夏がやって来る。
暑さが苦手な朱里が難儀せぬようにしてやらねばと、信長は雲一つない青い空を見上げながら思う。
思ったより元気そうな朱里の顔が見られて、信長は安堵していた。
腹の子も…一時は心配したが元気に育っているようだった。
(これは俺の勘だが……此度の子は男子に違いない、それも、俺に似てかなり我の強そうな…そんな気がして仕方がない)
先程のやり取りを思い出して、思わず口元が緩んでしまう信長だった。