第85章 黒い影
「朱里を手元に置きたい気持ちは分かりますけど、体調が不安定な朱里を日中、天主で一人には出来ないでしょう?もし、何かあっても気付いてやれないと、手遅れになる」
「くっ……」
家康の正論に、珍しく信長様が苦虫を噛み潰したような顔をなさっている。
私だって、ずっと信長様のお傍にいたいけど………
「信長様、私も昼間はこちらにいたいです。ここなら千代や侍女たちもいて安心ですし、信長様の執務室にも…行けますから」
「っ…朱里っ……ならば、夜は必ず天主で休め。毎夜、俺が迎えに行ってやる。家康、それならよいだろう?」
「はぁ…もう、好きにして下さい。但し、分かってるとは思いますけど、夜伽はさせないで下さいよ…産み月までずっと」
「ぐっ…分かっておるわ。俺はそんな節操のない男ではない。無事産まれるまで、朱里には指一本触れんぞ」
(指一本って…また大きく出たな。産み月まで、ってまだ結構あるんだけど)
「………頑張って我慢して下さい」
家康の冷ややかな視線をさらりと受け流し、堂々と胸を張る信長様が何だか可愛い。
言い合う二人を見ていると微笑ましくて、自然と笑みが溢れていた。
「ふふふ……」
溢れ出た小さな笑い声に、二人の視線が集まって、二人同時にニッコリと微笑まれた。
「な、何でしょう?なんで笑うの、二人とも?」
「あんたのそんな愉しそうな顔、久しぶりに見た」
「ああ…やはり貴様の笑顔は、何にも代え難いな」
「っ…やだ、もぅ…恥ずかしいです」
二人に見つめられて、恥ずかしくて熱くなった頬へ、信長様の手が当然のように伸びてきて…………
(…………って、あれ?)
いつものように、ふわりと優しく触れられる手の感触を想像して目を瞑った私は、期待したものが得られず、不審に思いながらチラリと目を開いた。
「あ、あのっ、信長様?」
目を開いたその先には、私に触れる寸前のところで、ぎゅっと拳を握り締めている信長様がいた。
(っ!?もしかして我慢してる?嘘っ、指一本触れないって…信長様っ、可愛すぎですっ!)
「はぁ…もぅ、見てられない。俺は失礼します……」
わざとらしく盛大な溜め息を吐いた家康は、私達にクルリと背を向けて、さっさと部屋を出て行ってしまった。
「信長様っ…もぅ、我慢なんてしないで。触れて下さい」
「っ……いいのか?」