第85章 黒い影
「はい、もういいよ、朱里」
「う、うん…」
盥の水で手を洗いながら目を伏せる家康の様子を、私は夜着の裾を直しつつ、チラチラと窺っていた。
七夕祝いの日の後も数日続いていた出血は、徐々に治まり、お腹の子の胎動も、以前のように頻繁ではないが少しずつ感じるようになってきていた。
「っ…家康、あのっ、大丈夫かな?」
「うん、出血は完全に止まったみたいだし、痛みもないんでしょ?無理するのはダメだけど、そろそろ床上げしてもいいかな」
「本当?っ…よかったぁ」
「くれぐれも無理は禁物だからね。出血が止まったっていっても、出産までは安心出来ないんだから。お腹の子の負担になるような激しい動きは、絶対にダメだよ」
家康から険しい顔で釘を刺されてしまい、嬉しさに綻びかけた口元を慌てて引き締める。
「わ、分かってるよ。胎動もまだ少し弱いし…まだまだ安心なんて出来ない。この子には、苦しい思いは二度とさせたくないから」
「朱里っ……」
(この子を信じる、絶対に守るって決めたんだもの…その為ならどんな我慢だってしてみせる)
「朱里、俺だ。入るぞ」
家康が診察道具の片付けをしているのを横目に見ながら、褥に身を横たえかけたその時、襖が開き、信長様が入ってこられた。
「信長様っ…」
大股で入ってきた信長に、家康は軽く頭を下げる。
「家康、朱里の具合はどうだ?腹の子は?」
「二人とも特に大きな問題はないです。峠は無事越えた、って感じですかね」
「信長様っ……私、もう床上げしてもいい、って…」
「そうかっ!ならば天主へ行くぞ」
「へ?あ、あのっ、信長様っ?」
今にも抱き上げられそうな勢いに戸惑いを隠せずにいると、横合いから家康のわざとらしい咳払いが入る。
「待って下さい、信長様。日々の天主への上り下りは、今の朱里の身体には負担が大きいです。出産までこのまま、ここで過ごした方がいいと俺は思いますけど……」
「くっ……それは、ならんっ!」
「は?」
「階段の上り下りなら、俺が抱いて運んでやる。案ずることはない」
「いや、そんな…あんた、ずっと朱里に付き添ってるつもりですか?無理だろ、そんなの」
何を言い出すんだと呆れた顔をする家康に対して、信長は全く気にしていない様子だ。