第84章 星に願いを
皆が宴に酔いしれる様子を、盃を手に満足げに見ていた信長だったが、徐に立ち上がる。
いつものように隣に控えて酌をしていた秀吉は、突然のことに一瞬反応が遅れてしまい、既に歩き出していた信長の背に慌てて声をかける。
「お、御館様、どちらへ?」
「………………」
早めに退出されるのかと思ったが、そうではなかった。
信長は黙って上座を降り広間を横切ると、迷うことなく中庭へ降りようとする。
秀吉は慌てて後を追い、信長の足元へ草履を差し出す。
「…ふっ……」
差し出された草履と、己の足元に跪く秀吉をチラリと見ながら、信長は、ふっ…と口元を緩める。
そのまま無言で草履を履くと、庭へ降り、笹竹の方へと歩き出した。
秀吉は自分もすぐさま庭へ降り、信長の後ろへ控える。
宴の間中、信長は傍目には常のように平静な様子に見えた。
次々に注がれる酒を水を飲むかのように飲み干し、家臣たちとも気さくに話をしていた。
隣に朱里がいない違和感を感じさせないほどに、常と変わらぬ姿を見せていたのだ。
今日は一日中、政務の合間を縫っては朱里を見舞っていた信長を、秀吉は黙って見守るしかなかった。
自分以外の武将たちも皆、朱里の様子を心配しているようだったが、表立って聞くこともできず、歯痒い思いを抱えているようだった。
庭へ出た信長は、真っ直ぐに笹竹の方へと向かう。
笹竹の周りで賑やかに酒を酌み交わしていた者たちが信長の姿を見て盃を置き、さっと平伏するのを、煩わしげに手で制して、信長は風にそよぐ笹の葉を見上げる。
「…御館様、如何なされましたか?」
信長の意図するところが分からず、戸惑いながら、秀吉はその背に声をかける。
信長はそれには答えず、笹の葉を見上げたままで徐に懐から懐剣を取り出すと、鞘を払い、迷うことなく手を伸ばして、大きな笹竹の一部をサッと切り払った。
「あっっ!」
鮮やかな剣捌きによる一瞬の出来事に、笹の葉がこぼれ落ちることもなかった。
信長の手には、二枚の短冊と数個の笹飾りが付いた、小さな笹竹が握られていた。
「無粋な真似を致したが……許せ」
予想外の出来事に驚く周りの者達に、そう一言言うと、信長は手の内の小さな笹竹を大事そうに見遣る。
それは、家臣たちが見たこともないような優しげな表情だった。