第84章 星に願いを
その夜、政務を終えた信長は、夜も更けてから天主に戻った。
襖を開けて室内へ入るが、部屋はひと気がなく、寒々しいぐらいシンっと静まりかえっており、慣れ親しんだ自室とは、まるで趣きが違って感じる。
(…朱里がおらぬだけで、これほどに違うとはな…)
天主へ戻る前に見舞った朱里は、遅い時間ということもあり、もう眠っていた。
痛みは引いたのだろうか、眠れてはいるようだったが、その美しい顔は常よりも青白く、ひどく儚げだった。
その、今にも消えてしまいそうな頼りなげな姿に、抱き締めて、そのまま天主へ連れて帰りたい衝動に駆られたが、家康から『絶対安静、極力動かさないで下さい』と強く言われたことを思い出し、堪えたのだ。
その眠りを妨げぬように、しばらくの間、触れもせず、ただ傍で見守っていた。
(朱里っ…すまぬ)
守ってやれたと思っていた。
華奢なあの身体を、腹の中の子を、自分は守れたと、そう思っていた。
だが…守ってやれなかった。
(このまま子が流れるようなことになれば、朱里の身はどうなる……朱里を失うことなど耐えられぬっ…あやつのおらぬ世など…俺にはもはや考えられぬ)
「くっ…朱里っ…」
寝台に身を投げ出し、両手で顔を覆う。
(今の俺は、きっと酷い顔をしているだろう。家臣どもには、頼りない姿は見せられん。今の俺には、失うのが怖いと思えるものが、思っていた以上に多いらしい…)
その夜は、横になっても、一向に眠気はやって来なかった。
心も身体も疲れ切っているはずなのに、眠れない。
いっそ眠りに落ちてしまえれば、楽になれるのに……
眠れぬ夜を過ごすなど、いつ以来だろう。
いつの間にか、自分は朱里が傍におらねば眠ることもままならなくなったようだ。
(朱里っ…貴様と腹の子を守れるならば、俺はどんなことでもしよう。星に願って叶うというのなら……いくらでも願ってやる)