第84章 星に願いを
「……なんだ?何か言いたいことでもあるのか?」
低く重みのある声にハッとして、いつの間にか俯いていた顔を上げると、信長の、全てを見透かすような深紅の瞳が自分を見つめていた。
「……いえ、何も」
(あの子が言ってないことを俺が言うわけには……いかないな)
信長の物問いたげな視線を痛いぐらいに感じながらも、家康はぐっと口を噤む。
「貴様もあやつも……言いたいことを言わぬ奴らよ」
はぁ…っと小さな溜め息とともに呟かれた信長の言葉は、家康には届かなかった。
朱里が、この七夕祝いを皆で楽しみたいと願っていることは分かっている。
俺が『短冊は書かない』と言った時、悲しそうに表情を曇らせたことにも気付いていた。
願い事がないわけではない。
むしろ、人間は、願いや欲しいものがなければ、生きる意味を見出せない生き物であろうと思っている。
願うものがあるからこそ、それを糧に日々を生きていけるのだ。
だからこそ、それは何かに頼るものではなく、己の力で叶えるものだと思っている。
神や仏に、ましてや星になど…願って何になろうか。
くだらない、と思う反面、朱里がキラキラと目を輝かせて毎日楽しそうに準備をしている様子を傍で見ているのは、この上なく幸せな時間だった。
城の皆が一枚の短冊に各々の想いを込めて、この催しを楽しんでいることも好ましいと思っていた。
それでもなお、自らは、星に願いを託そうという気にはなれなかった。
俺が願い事を書けば、あやつは喜ぶだろうか。
もっと幸せそうな顔をするだろうか。
大輪の花が綻ぶような、朱里の笑顔が見たい。
あやつが望むなら、どんなことでもしてやりたい、と心からそう思っている。
それほどに、もはや、あやつは俺の生きる糧なのだ。