第84章 星に願いを
「う〜ん…何を書こうかなぁ…やっぱり迷っちゃうなぁ」
文机の前に座り、かれこれ四半刻、短冊を前にしても一向に筆が進まない。
御子を無事に産めますように……
皆が病気しないで元気に過ごせますように……
戦や一揆が起こりませんように……
信長様とずっと一緒にいられますように……
考えれば考えるほど願うことが多くて、一つに絞れない。
秀吉さんにはああ言ったけれど、楽しむよりも悩ましいばかりだ。
(さすがに何枚も願い事を書くのは大人げないよね……)
すっかり墨が乾いてしまった筆を硯に戻しながら溜め息を吐いていると、襖の向こうから愛しい人の声がかかる。
「朱里、入るぞ…」
「信長様っ…」
流れるような所作で室内へと入ってこられた信長様は、文机を挟んで私の前に腰を下ろす。
「……七夕飾りの短冊か?そういえば、秀吉がそんな話をしていたな…もう書いたのか?」
文机の上の短冊にチラリと視線をやりながら、悪戯っぽく口元を緩める。
「いえ、まだ……願い事が一つに絞れなくて……」
落ち込み気味にそう言うと、信長様は可笑しそうに笑う。
「貴様はまた、子供のようなことを言いおって。そんなに深刻に考えることでもあるまい。星に願い事など……不確かなことよ」
「ううぅ…そんな風に仰らなくても……」
信長様が、神仏や呪いごとの類いを一切信じておられず、現実主義的なものの考え方をなさる御方だということはよく分かっている。
不確かなものに頼ることなく、自らの強靭な意思と実力でこの乱世を生き抜いてこられたということも。
ただ…他愛ない遊びだと思われようとも、織田家に集う皆が七夕の一夜に一つの笹竹に願いを込めて共に過ごす…そんな細やかな時間が、私には幸福そのもののように思えたのだ。
「信長様は…願い事は書いて下さらないのですか?」
表情を窺いながら、遠慮がちに聞いてみる。
「ふっ…俺には星に願うようなことはない。望みがあれば、自らの手で叶える。これまでもそうしてきたし、それは今後も変わらぬ」
「そう……ですか…」
予想どおりの答えに、何とも返す言葉が見つからず、私は文机の上の短冊を所在なげに見つめるしかなかった。