第82章 誘惑
京での諸事を終え、大坂へ帰城した信長が真っ先に向かおうとしたのは、朱里の自室だった。
光秀からの知らせで、京でのあれこれを聞いていた秀吉が、城門前で待ち構えており、顔を合わせた途端に色々と言ってくるのを、煩げに追い払いつつ、足早に城内へと向かおうとする。
「お、御館様、お待ち下さいっ…色々とお聞きしたいことが……いや、というか、お疲れでございましょう?まずはお身体をお休め下さいませっ」
「構わん、俺は疲れてない。京でのことは光秀に聞け。光秀、後は任せたぞ」
「はっ!お任せ下さい。秀吉の小言は、私が代わりに聞いておきましょう」
「なっ、光秀っ、お前って奴は……大体なぁ、お前がついておきながら、御館様に訳の分からん女を近づけるとは…職務怠慢だぞっ!」
「くくっ…お前にかかると、高貴な身分の姫君ですら、訳の分からん女扱いか?」
「当たり前だ、九条家の姫だか何だか知らんが、御館様を誘惑するなど……しかも、断られた腹いせに自分勝手に帝へ訴えるなど言語道断だ、許せんっ!……って、おい、御館様は??」
「……………御館様なら、とっくに、城内へ入られたぞ?」
「なっ!?いつの間に……」
慌てて後を追おうとする秀吉を、光秀は嗜めるように引き止める。
「秀吉、少し落ち着け。御館様の向かわれる先は、一つしかないだろう?御館様がゆっくり身体を休められる場所は、朱里のそばだけだと、俺は思うんだが…お前はそうは思わんのか?」
「っ……光秀、お前……」
「御館様の右腕たるお前が、よもや御館様のお望みを分からぬはずはないだろうなぁ?御館様の休息を邪魔するなど…忠臣たるお前らしくない振る舞いだぞ?」
「うっ……」
グッと押し黙ってしまった秀吉を尻目に、光秀は口元に穏やかな笑みを浮かべながら、信長が去っていった方向に目をやる。
(ゆっくり休まれませ……御館様)