第82章 誘惑
「朱里っ…戻ったぞ!」
城門前で、騒ぐ秀吉を光秀に任せて足早に城内に入ると、一直線に朱里の部屋に向かった。
何事かと驚く家臣達と廊下ですれ違うが、適当にあしらいつつ部屋の前まで来ると、勢いよく襖を開いた。
朱里は今日も赤子のむつきを縫っていたようで、膝の上には白い木綿の反物が広げられていた。
いきなり開いた襖を驚いた顔で見た朱里は、入り口に立つ俺を見て更に驚いたように目をぱちぱちと瞬いた。
「っ…信長様っ!?まぁ、もうお戻りに?私ったら、お出迎えもしないで……ご、ごめんなさいっ………きゃっ!」
ずかずかと室内に入ると、朱里の返事も聞かぬ内に、腕の中に引き寄せて、ぎゅうっと抱き締めていた。
朱里の顔を見た途端、無意識に身体が動いた。
「の、信長様?急にどうなさったのですか?危ないですよ?」
手元に針を持ったまま慌てる朱里に構わず、艶やかな黒髪に顔を埋め、その落ち着く香りを胸いっぱいに吸い込むと、穏やかな満ち足りた心地が全身に広がっていく。
張り詰めていた心と身体が、急速に元に戻っていくようで、しばらく黙ってそうしていた。
「………信長様?」
「…………………」
「…信長様?…どうかなさいましたか?」
「…………………」
「京で、何かありました?」
「…………何も…ない」
躊躇いがちに呟かれた言葉に、いつもと違う少し頼りなげな様子が感じられて心配になったが、こういう時は、聞いても話してくれる人ではないことは、これまでの経験から分かっている。
広い背中に腕を回し、精一杯の想いを込めて、ぎゅうっと抱き締める。
少しでも安らぎを感じてほしくて、抱き締めた背中をトントンと撫でた。
「信長様…お帰りなさい。お疲れ様でした」
「ん……」
京で何か、信長様を悩ませるようなことがあったのかもしれない。
戻られて早々に逢いに来てくださり、甘えるような仕草をなさる姿に、愛おしさが募る。
悩みも躊躇いも…話して欲しい、私も一緒に全て受け止めたいと思うから。
けれど……話して下さらなくても、それでもいい。貴方がそう望むなら、私は黙って傍にいたいと思うから。
今はただ、貴方の心が少しでも穏やかになるように、この身で包んであげたい。