第82章 誘惑
「ふふっ……帝には、私からもお取りなししておきましょ。摂政殿からの訴えゆえ、帝も無下にはできずに、信長さんをお召しになったんやと思いますし…あんまり心配せんでもよろし」
「ああ…」
(心配はしておらん……面倒事が増えて憂鬱なだけだ)
心の中で、そう思いはしたが、前久の好意にはありがたく甘えておくことにする。
織田家が今現在、いかに力があろうとも、朝廷の権威を重んじる大名は多い。
帝が一言、『信長を討て』と宣下を下されたならば、織田との同盟を破棄した大名たちと、再び各地で戦が始まり、たちまち天下は乱れるだろう。
朝廷を、帝を立てながらも、こちらの要望と折り合いをつけて上手く動かし、その権威も利用して天下を治める。
武力だけでは、天下布武は為し得ない。
(政とは、まことに難しい。思いどおりにならぬことも多く、忍耐を強いられる)
この後の憂鬱な時間を思い、次第に重くなっていく心の中で、信長は深い溜め息を吐きつつも、今一度、気を引き締めるのだった。
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その日、信長が妙覚寺に戻った頃には、夜も更けて月も深く隠れてしまっていた。
光秀を背後に従えて寺の廊下を歩く信長の足取りは、どことなく重かった。
「御館様……だいぶお疲れのようですが…」
「…大事ない。思ったより刻がかかってしまったが、近衛殿の口添えも効いて、何とか上手く収められたしな。
光秀、塀の修繕の方はどうなっている?」
「はっ、あらかたの目処はついております。もうじき完成するかと」
「そうか…ならば、もう京に滞在する理由もない。早々に帰城の準備を致せ」
「はっ!」
此度の上洛の目的は済んだ。
この上は一刻も早く帰城したいところだった。
(戦場では、このような気を使うこともないというのにな……やはり堅苦しいことは性に合わん。それに………)
此度の一件で、帝からは再度、公家衆との縁組を正式に考えてはどうか、とのお声かけがあった。
必要ないからと、やんわり辞退はしたが……納得頂けたかどうかは甚だ疑問だ。
今後も、上洛するたびに、このような面倒事が起きるのではないかと思うと、気が重かった。