第11章 徒桜
紙の上を滑る、硬い黒鉛の音。
木の香りが充満するウッドデッキの上。木製の椅子に腰掛けていたひまりは、五月の陽の暖かさと迷いの無い黒鉛の音が心地良くて、微睡み始めていた。
その雰囲気を察知した依鈴が机を挟んだ向こう側。
真正面に座り、色素の薄い髪をゆらりゆらりと揺らす彼女に声を掛ける。
「ひまり。あと少しで終わるから」
依鈴の凛とした声に、ひまりはほとんど閉じていた瞳を見開き、は。と息を吸い込んだ。
ごめん、寝ちゃってた。眠気を吹き飛ばす為に首を数回振り、椅子の背に預けていた背筋を伸ばす。
そうしながら目の前の依鈴ではなく、ここに座った時に指示されていた細い陽の雨が注ぐ、青々とした雑木林へと急いで目を向けた。
ふ、と依鈴は口元だけで微笑み、再びスケッチブックの上に鉛筆を滑らせ始める。
ひまりとスケッチブック。交互に視線を動かしながら迷いの無い音を響かせる。
遠くの景色を見る彼女の首には、もう痛々しい痕は残っていない。
何故あの日、ひまりは慊人に会いに行ったのだろうか。
呪いが解けて解放されている筈なのに、何故わざわざ会いに行ったのだろうか。
何故慊人に会いに行ったのか。その一言が音にならずに腹の底へと返っていく。
「夾とは、どうなの」
代わりに口走ってしまった言葉は、聞きたくもない事だった。依鈴はそんな自身に対して、心の中でひとつ舌打ちをした。
そしてそっと彼女の顔色を伺う。ひまりが艶のある頬を赤らめたりなんてしていようものなら、今すぐにキッチンでカレーを作っている猫を蹴り飛ばしてしまいそうだ。
「夾とは、って。別に何も変わらないよ」
依鈴はひまりの顔を盗み見した時点で、迷いの無く滑らせていた鉛筆を止めていた。
狼狽えることもなく、真っすぐにただ遠くの緑を見つめている。
その様はまるでスケッチブックに描かれた絵のように、感情の色が全く見えないものだった。
「もしかして、まだ夾の呪いが解けてないから私たちの関係性心配してくれてたの。ふふ、大丈夫だよ。まぁ、由希と夾は相変わらずだけど」
僅かに肩を竦めて笑ったひまりの動きに合わせて、透き通ったような茶の毛先が一度だけ揺れた。
光を反射させない程に深く黒い依鈴の双眼が、丸く見開かれる。