第11章 徒桜
気つけろよ。頭の上に置かれた手に押され、グンと地面が近くなった。濃くなる土の香り。
カシャンと近くで聞こえた音に、「え、フェンス?ここ入っていい場所なの」と不安げな声を上げるが、夾は悪びれた様子もなく「さぁな」と答えた。
いや、絶対ダメな場所じゃん。そう反論しようとしたが、風が乗せてきた香りに意識を取られる。
かがみながら数歩歩いて、曲がった腰を伸ばした。
青い香り。それと共に甘い香りが混ざる。
華やかさはないけれど、素朴でふわりと暖かい。包み込むような香りに、思わず開けてしまいそうな瞳をギュッと手で押さえた。
胸が高鳴り始める。立ち止まった夾の言葉をただ待っていた。
ゆっくりと繋いでいた手が離される。
「いいよ。目ぇ開けて」そう声をかけて夾は、ひまりの後ろへと下がる。
ずっと閉ざされていた目を細めて開く。
明るさに怯んだ瞳は、焦点を合わせるのにわずかな時間を必要とした。
ぼやけて見えたのは一面の白と緑。僅かに白の方が多いそこが、ハッキリと見え始めた。
ひまりは静かに身震いして、池を揺蕩う葉のように視線をゆるやかに動かす。
言葉が出なかった。自然と左手が左耳に光るピアスを触っていた。
シロツメクサ。一面のシロツメクサだ。
フェンスに囲まれたそこは、空地なのだろうか。
整備がずさんなお陰で、自生したシロツメクサが地面を見せぬ程に咲き広がっていた。
奥には桜の木が立ち並んでたが、桃色はまばらで、緑の葉を多くその身に付けている。
ひまりの視界がぼやけ始める。景色を鮮明に焼き付けたいのに。
「ジョギングしてて見つけた。桜、咲いてたらもっと綺麗だったんだけどな」
隣に立った夾が不安げにひまりの顔を見て、ギョッと目を見開いた。そして苦笑して、ボロボロと涙を流す彼女の頭に手を乗せる。
「泣きすぎ」
ひまりは泣きながら、ふふ、と笑った。ありがとう。と掠れた声を出して、泣き腫らした目を細めた。
風が吹いて、花畑に波を起こして、ひまりと夾を飲み込んで去っていく。
ひまりは夾を見上げた。
このまま何処かへ逃げ出せたら、どんなにいいだろう。
希望だけを背負ったように笑う夾の顔が嬉しくて、どうしようもなく苦しい。
頭の上に乗る手が、頭から左耳へと滑っていく。
その手はクローバーのピアスに優しく触れた。