第11章 徒桜
倫理観の欠如。
首を絞めて殺そうとした?なんの為に?怒り?衝動?
首元についていた指の跡が鮮明に脳裏に映し出され、吐く吐息が震える。
胃の底が焼けて、深部まで黒く焦がされているようだ。
たった一本で繋がれた理性が、かろうじて保たれていたのはひまりが裾を握ってくれていたからだ。
それが解かれた。踏み出せる。吐き出せる、この熱を。
鋭い眼光が紫呉の後ろで蹲る"物体"を捉える。
咎めたいだとか、間違いを教えたいだとか、そんな筋の通った理由は無い。
憎い。ひまりを傷つけたことが。殺そうと、したことが。
憎くて仕方がない。ただただ、憎悪のみが膨らんだ感情だった。
倫理観の欠如。
それは今の俺も、きっとそうだ。
「どいて、紫呉」
「いやぁ、それは聞けないお願いだよねぇ」
紫呉の口元に弧を描きながら軽口を叩いているが、その表情には微塵の余裕も見受けられなかった。
新しい雫が、今度は顎に伝っていく。
十も歳が離れているとはいえ、相手は武道経験有りの体格差の余り変わらぬ男。その強さも、何度も目の当たりにしている。
僕ひとりじゃぁ、少々手厳しいよなぁ。心の中で呟いて、はとりはまだか、とドアに視線を向けた。
「どいて」
「衝動に身を任せるは、ガキの所業だよ」
その言葉に、由希の鋭い眼光が紫呉を刺した。ビリビリと空気が震え始める。
一歩を踏み出し始める由希に、意を決して紫呉も僅かに重心を下げる。
あー、もう。はーさん早く……ッ。その願いは、まだ届かない。
だが、由希の歩みはすぐに止まった。ひまりが再度、彼の服の裾を乱雑に掴んだからだ。今度は全体重をかけるようにして。
止めても無駄だから。ひまりに伝えようとして、言葉を飲み込む。
未だに体に力の入らないひまりは、由希の裾を頼りに不安定な体で立ち上がり、その横を抜け、紫呉に見向きもせずにその奥に蹲る慊人を守るように抱き締めた。
震える黒髪ごと頭を抱き込んで、呆然と立つ由希と紫呉に背を向けていた。
焼き切れそうだった熱が一気に冷める。
その背を前に、全身の力が抜けていくのと同時に痛い程に冷えて、鳥肌が立つ。
彼女は、彼女の意志で縛られることを決めたように思えて、唇が震えた。
待って。祈るように呟いた声は、震える唇のせいで音に成ることは無かった。